教師が「答案」を書き、生徒が審査する

  岡潔だったか、次のようなことを言ったことがある。
我々には、ボーッとするための自由な時間と空間が欠かせない
  
 「答案が合っているかどうか、普通生徒にはわからない。○や×がついた答案を見て初めてわかる。大事なことは、答が正しいことを教師に保証してもらうことではない。自分でそれを確認することが大切なのだ。生徒も教師も、それがわかっていない。
 答案を生徒に書かせるより、教師が「答案」の例を書いて、生徒がそれをが調べるほうが判断力は身につく

  別の解き方を考えるのもいい。立派な答案は書けなくても、「つじつまが合わないこと」や「怪しさ」はわかることが大事。それは、国語も理科も社会科も変わらない。ただ数学や物理は、定理に従えば誰でもおおよそのことはやれる。

 異議を唱えるとは、そういうことだ。知識において、財力において、権力において圧倒的な差があるとき、「答案は書けなくても、「つじつまが合わないこと」や「怪しさ」はわか」ったり、矛盾が見えた時点で瞬発的に異議を唱える、それが「抗議」に於ける民主的公平性である。異議を申し立てた側に、十分な説明をし納得させる義務が、力を持つ側にはある。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」とフランツ・ファノンが言ったことの意味はここにある。「市民の筋肉と頭脳」によって事柄の本質が見え、「市民がそれをわがもの」として理解納得して自ら行動するまで、権力的振る舞いはしてはならないのだ。どんなに「良い」ものであっても、異議を潰してしまっては依存と反感を作り出してしまう。

 岡潔は、こうも言っていたと思う。

 「試験では答案を書き終って、間違ってないかどうか十分に確かめた上に確かめて出す。出して外に出た途端「しまった、間違えた」と気づく
 外に出た開放感で緊張が解けたとき、全き自由な思考が始まるのだ。必死になって間違いがないか確かめているとき、自由な思考は働くものではない。だから入試や定期試験はやめた方がいい。僕の経験では、ノートを自由にとらせ(そのためには、板書らしい板書はしてはならない)、意見を異議を歓迎するのがいい。照れ屋の高校生にはもってこい。なるべく訂正や感想、質問への感想を入れて早く返す必要があって忙しくなる。中には手元に残したくなるものもあって、交渉するのだがそういうものに限って、生徒の側も手元に置きたいらしく呉れない。欲しいものは残らない。


  官僚や学者が開発計画などを作り上げ、国会や公聴会の説明で緊張しているとき、間違いはないか懸命ななる。なればなるほど、自由な思考は働かない。外に出た途端に、間違いに気が付くのではこの場合遅すぎる。異議を唱えられ間違いを指摘されて腹を立ててはならない。全き自由な思考を誘う有難い一瞬なのだ。民主制にとって異議申し立ては、千金を以てしても購えない価値がある。
 全き自由な思考、それは予定や計画を忘れて、庭をボーッと眺めたり、釣り糸を散れていたりするときに不意に始まる。だから学校や職場には、自由な時間と広く静かな庭と池と心地よい喫茶室が絶対的に必要なのである。
 それがない学校や職場は、自由な思考にとって闇である。自宅にそれを持つものは、幸運である。それがない者のために、公園は人権を構成する。

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