低賃金低福祉政策のためにつくられる落伍者

 江戸霊岸島に不良少年矯正塾があったことが、石塚豊芥子の『街談文々集要』に見える。石塚豊芥子は文化文政年間の巷の四方山話を収録した。左は『街談文々集要』の挿絵の一つ。大田南畝や谷文晁ら百人以上が参加した文化12年の酒合戦を紹介している。醤油や酢まで飲んだらしい。

  「文化二乙丑九月霊岸島長崎町忠右衛門店、山下飯之助といふ浪人、世間の放蕩者或ハ悪党なりとも篤実にする事をなす。是ハ右山下飯之助の門弟と成り、何ヶ日の間と定、其間ハ山下方え引移りて、書を読せ或ハ諸禮を習わせ、右日限の間にハ自然と悪念をはらひ、真實の者になしてかへすよし。
 いかなる教へ方あるにや、廣き大江戸の事ゆへ親兄弟の申事を聞入ざる不禮の族をハ連来り、相願候者数多有ト云々。 其家造りハ玄関をかまへ、實事論会学堂ト書し看板を出し、槍鉄砲弓具足櫃(ぐそくびつ)其外武具の類ひをかざり、門弟多く皆袴を着し玄関に相詰居候よしなり


 貸家住まいの浪人山下飯之助が、親の手に負えない若者を門弟として自宅に寄宿させ、書物と礼法で見事に立ち直らせ「山下先生のお陰で、悪心を払い真人間になった」と評判が立った。
 かなりの費用を要したが、親や親類一同が相談して、次々とドラ息子を連れてくる。
 山下飯之助の玄関には、「実事論会学堂」と看板が掲げられ、玄関をはいると槍、弓矢、鉄砲、具足を入れた櫃などの武具が飾られ、袴を着た内弟子がひかえていた。入門と同時に、山下の著述『鏡学経』が渡される。午前は『鏡学経』を学習し、午後は剣術の稽古をしたという。
 二、三日で音を上げ逃げ帰る者もいたが、親元に押しかけ連れ戻し足枷などをはめて二度と逃げられないようにした。
 それでも、あるいはそれ故門人は増える一方。山下は門弟の親に寄付を求め、あらたな拠点作りを模索し始める。だが文化二年(1805)9月、町奉行所は山下を召し捕らえてしまう。町奉行根岸肥前守鎮衛は次のように言い渡している。

 其方儀町方住居浪人の身分にて玄関に槍、長柄等を飾り、具足櫃、弓、其外鉄砲と相見へ候品袋に入飾置、實事論会学堂と申看板を差出し、新規異流の儀を相企、乱心者又ハ放蕩者を教諭ヲ以相直候様奇怪ヲ申触、其上自分取綴候鏡学経と申板本ヲ拵へ弟子共へ為読候のみ申立候へとも、不容易義に候処相認メ、学堂取建候迚弟子共より金子為差出、本湊町にて屋鋪買求、作事場為見廻、町人の弟子共え苗字為名乗、利欲ヲ以蒙昧の者ヲ為迷金子徳用致候始末不届至極に付遠嶋申付候
 

 山下飯之助は遠島、息子や内弟子などが江戸払いなどの処罰を受けた。

 蝦夷奉行が置かれたのは1804年、日本近海が騒がしくなり始めていた。しかし蛮社の獄は1839年。

 幕府にとっては、庶民が身を持ち崩し落伍者として世間の指弾を浴びさせる方が、封建的秩序維持には好都合だった。犯罪や貧困が政策によって救済されることを快く思わない人々は今も昔も少なくない。自己責任、身から出た錆と言いたがる。
 日本経団連会長を務めた奥田碩は「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」と平然と言う神経を持っている。目に見える格差や落伍者の存在は、低賃金低福祉社会にとって欠かせないのだ。

 
 山下飯之助もだいぶ怪しい。逃げ帰る者に足枷をはめたり、玄関の武具で威圧したり、大金をせしめたり、某yacht schoolや校長室にトロフィを展示したがる中高校と似た匂いがする。
 問題は、「山下先生のお陰」と個々の親子の問題を丸投げしたことにある。
 


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