待つことの積極性

武谷三男 物理学者、湯川秀樹の共同研究者
  戦後になって、羽仁五郎と対談する機会があった とき、羽仁さんに、「八月十五日に友達がぼくの入れられいた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくれるんだ、と思って、一日まってたよ。・・・君でさえ、かけつけてきて鍵をはずしてくれなかったのだからな」といわれた。 
 「おっ」と思った。彼はそういう形で私の責任を追及してきたんです。
   もう一人似たようなことを回想として語った人が武谷三男です。敗戦のときに、彼のうちに布施杜生の元細君がいたんです。布施杜生というのは、野間宏の『暗い絵』の主人公に当たる最後の共産主義者で、治安碓持法で捕まって、獄死した人です。 
 その布施杜生の細君が戦争が終わったのを聞き、ものすごく喜んで、「獄中の同志を助けに行こう」という手書きのポスターを新橋駅近くの電信柱に張って歩こうとしたんですね。ところが、武谷三男はそれをとめた。新橋あたりには、まだ戦争を続けるのが正しいと思っている人が大勢いるはずだ。そこでそんなことをしたら、ひどい目に遭うにちがいない。やめたはうがいい、と強く説得してやめさせた。 
 しかしそれから十年たって、歴史を振り返ってみると、そんなことをやった人間は誰ひとりいない。ということは、日本の人民のなかのただひとつあった可能性を自分が潰したことになる。それについて、自分は責任を感じる、と武谷はいっていた。 
 この武谷の考え方も、やはりミステイクン・オブジェクティヴイティを免れている。歴史のなかに自分のやったことがきちんと入っているわけです。現代史というのは、そういうものなんだ。自分がやっていること、やったことを入れ込んだうえで歴史を見ていく。そういうふうには歴史を見ないのが天下の大勢ですよ。大方は、誤れる客観主義に陥ってしまう。羽仁五郎と武谷三男にはそれができた。       鶴見俊輔  思想の科学1968.10 『語りつぐ戦後史』

  我々日本人は、自前の戦争犯罪を問う法廷を持てなかった。それどころか、戦争を批判して獄中にあった思想犯を救い出そうとさえしていない。
  治安維持法は敗戦後も「迫り来る「共産革命」の危機を口実に断固維持適用する方針を取り続けた。それを日本人は許した。その中で1945年9月26日に世界的哲学者の三木清が獄死したのである。いわば見殺しと言ってよい。10月1日GHQ設置。10月2日、仏人特派員がが獄死した情報をえて、おどろいた欧米記者たちがさわぎだした。調べてみると看守がわざと、介癬患者がつかった毛布をあてがったことが判明。床に落ち、もがき苦しんでの死であった。敗戦から2ヶ月、まだ全ての政治犯4000人が獄中にいた。
 10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣が、英国人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けており、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張。岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。全く敗戦の意味がわかっていない。10月4日、GHQは人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法廃止と山崎の罷免を要求。東久邇内閣はショックを受け総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられている。情けない話である。

 非転向のまま獄中あった共産党員ぬやま・ひろしは、釈放から30年たった死の直前に、こう言っている。
 「戦争が終ったときに私たちは疲れきっていて考える力というものをほとんど完全になくしていました。そのときに占領軍の士官がきて私たちを釈放するということを伝えました。徳田球一は私たちの中でただ一人元気で私にこの占領軍の申し出を受け入れるべきかどうかということを尋ねました。そのときに私はもう考える力がなかったので彼が正しいと思うようにするようにと答えました。ですからいま私がこんなことをいうのは当時の自分の先見の明を誇っていうのではないのだが、私はあのときにこう答えるべきだったといまは思うのです。日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ、というべきだったなと思います」     鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』

 「日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ」これが、まっとうな政治判断である。待つことは決して消極的行為ではない。
 中井正一の「ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く。その一本の小指となるもの、それが君たちインテリゲンチアだ」の「ある瞬間」を堪えて待たねばならぬ場合がある。根が伸びて若芽が安定する前に、無理矢理引っ張って枯らすようなことを「指導」と言い募って台無しにしたことがどんなにか多いだろうか。学校でも、政治や市民運動でも。
 布施杜生の細君・布施歳枝がここで言う「一本の小指」であった。「歴史を作るのは人民である」ことを日本国民が自ら実感し、昨日まで人民を支配していた者に通告する空前絶後の機会であった。もしこれが実現していたら、占領軍を解放軍と位置づける過ちは避けられた筈だし、新しい憲法への動きも異なっていたに違いない。天皇が沖縄を米軍に差し出すという暴挙もなかっただろう。悔やまれてならない。

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