危険なのは使命感

 「永海佐一郎は教養にじゃまされることなく
隠岐に生まれた無機化学の世界的権威で教育者
自由にものを考え、しゃべり、書くことができたようである。 かれの自叙伝は、いわゆる教養人からみれば恥ずかしいほどにあけすけである。かれは自分が教育好き、講義好きであることをかくそうともしない。ふつうの〝教養のある″科学者はたとえそう思っても絶対口に出そうとはしないし、そう思わないように努めるものなのだ。教育は研究より下に見られていることを知っているからだ。同じことをいうにしても「教育に使命を感じて」といういい方をするものだ。
 ところが、永海が化学教育に夢中になったのは、それに使命を感じたからではない。自分自身好きだったからだ。だからかれは、その講義をきき実験を見る人たちにもなんとかそのよろこびを分かちあってもらおうと夢中になる。「使命を感じて」教育をやる人とはその姿勢がまるでちがう。かれの本を読んでいて気持ちのよいのはそのためであろう。かれは「教育的使命を感じて押し付ける」なんていう発想をまるでもっていないで、読者が化学を本当にたのしめるようにとだけ考えて化学教育の組織にのりだしたのである。これは日本の科学者、科学教育者としては、まったくめずらしいことだ」 
   「かわりだねの科学者たち」 板倉聖宣 仮説社           

 いったい教養人とは、誰が誰を指していうのだろうか。妙な言葉である。使命感の底には、背伸びした劣等感としての優越意識がある。それが、例えばハンセン病絶対隔離発案者・光田健輔を気高く見せ、光田に追随する者をも引き上げる。光田を祭り上げれば上げるほど、自分も輝くような気がする。しかし所詮虚構。脆く崩れ去る危機は常にある。それ故、感染力の極めて弱い病気を、ベスト並みの危険な病気と絶えず宣伝して、それに立ち向かう虚偽の己を祭り上げてしまう。その結果、ハンセン病者をこの世の地獄に落とし込んだのだ。ハンセン病が危険なのではない、使命感が危険なのである。 
 全生分教室中学派遣教師たちに使命感がなかったのは、幸いと言わねばならない。すぐに転勤という約束を取り付けた者が使命感を言うのは格好がつかないし、患者教師たちが授業を楽しんでいるのを見れば、使命感の据えどころはない。授業好きに使命感は要らない。患者と共に病気に立ち向かうことが好きな医師に使命感は要らないし、差別意識が芽生えることもない。
 
  F先生は、いつの間にか使命感にとりつかれていた当blog「心を病んだ教師」 非常勤の時は、使命感どこ吹く風といった趣の、しかし文句の付けようのない国語教師であった。ギターを抱えて教室に向かう姿は、颯爽として自信に満ちていた、授業の導入にフォークソングの歌詞を使うのだった。国語教材に社会科関係のことが触れられていれば、よく準備室にやって来て、質問して話し込んだ。だが採用試験に合格して教諭としてH高に赴任、6年を経て邂逅したとき、彼は統合失調症を病んでいた。

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