子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。 summerhillの授業、左奥の白髪老人がAlexander Sutherland Neil |
「ソ連は教育上の自由、自治、創造を、大々的に振りかざして出発した。だがその後しだいに変化してきた。政府は次のような意味のことを言った。「これは大そうけっこうである。しかしわれわれは社会主義文明の建設を急いでいる。われわれは熟練した労働者、すなわち技師、教師、医師、支配人等々を必要とする。われわれは暇にあかして完全な自由を発展させることはできない・・・これはソ連がソ連の新制度を打破しょうとする多数の敵に取りまかれている結果であると、ソ連の支持者は考えようとする」ニイル著作集4
「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、つねに同時に目的自体として扱わねばならない」カント人は、他と引き換えがきかない、序列化出来ない。つまり尊厳性がある。カントの定言命法を、軽々しくも社会的要請が退ける。確かに人類的社会的と言える要請が、個人を命を賭しての行動に駆り立てることがある。しかしそれは、個人の決意によるものでなれればならない、絶対に。
社会が、会社に、クラスに、班になってゆく。集団がどんなに小さくなっても、個人は集団に寄与することを求められる。「個人主義」が組合でも教研でも否定的に語られ続けたのはそのためだ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は、みんなの「尊厳」を個人の「尊厳」の集合としてしまった。1個人の尊厳+1個人の尊厳=2個人の尊厳ではない。全員の尊厳-1個人の尊厳=ゼロなのだ、全員が一人であろうと1万人であろうと変わらない。
自由が、あきるほどの暇があって漸く実現するものであれば、それは永遠に特権者の奇貨としておかれ続ける。
70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。しかしその中身は、多数決による管理強化にすぎなかった。
「外見の自由は基本的人権であり、特定の高校に属することを理由に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服となれば、服装が特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
「今の基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」という反論が直ぐにあった。大学で共に活動した仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」を言い出すものまであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
事実全国的に高校が荒れはじめ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に就職してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。青少年の「荒れ」の現象の目まぐるしさに惑わされて、その実態や本質をつかめない不安が、教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷極まる事態を解決する万能の呪いのように思えたのだ。
「基本的生活習慣」と言う漠然としたものが、なぜ服装で身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
「学校が毅然として一致して生徒に迫るには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことを言う。ではいつ解除するのかと食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教師の「実践レポート」から授業が目立って減り始めたのである。
もうあれから40年にもなる。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制しているのだ。
追記 工業高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではないのだ。
子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。ニイル
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