表現の不能・言論の不自由としてのヘイトスピーチ

僕にとって今年一番のnews は、「国際平和ビューロー」(IPB)が
2017年の平和賞を翁長知事ら「オール沖縄会議」に授与したことだ。

   暴走族は、誰に何を言いたいのだろうか、誰かを何かを憎んでいるのだろうか。ホームレスを襲う中学生はどうか。
 彼らの言葉を聞き・表現を受け止めるのは大人の義務であることを「子どもの権利条約」は宣言した。にもかかわらず世間は「非行少年」を厄介者扱いし厳罰を求め続ける、明らかに憎悪している。
 若者を日々抑圧疎外している面白くない現象、例えば親の失業・貧困、些細なことでの退学処分、居たたまれない選別の状況(近所や同級生・親戚の憎悪の眼差し・・・)は悪化するばかり。彼らのイライラ不安は募る。だが、それを言い当てる言葉を発見できない。現象の中に実態を掴み言語化することが出来ない。怒りや不安をぶつけるべき対象さえ見えない。たとえ言葉をぶつけるべき相手を前にしても、それを伝えることが出来ない。
 出来ないよう、学校も報道機関も行政も事柄の現象だけを扇情的に追う。カリキュラムがそう構成されている。少年たちは、正体不明の大きな力に取り囲まれ、しかも憎まれている。少年たちは、その不安・憤懣・恐怖を払拭するために、社会的弱者・周辺の人々に殊更攻撃的になるか、沈黙する。なぜなら、彼ら「社会的弱者・周辺の人々」こそが、少年達の未来を暗示して、少年達が最も意識したくない存在であるからだ。
 「私たちは、彼ら社会的弱者・周辺の人々ではない。なぜならその証拠に奴らを憎んで攻撃しているからだ。見てくれ、攻撃しているぞ」、という訳だ。でなければ無関心であろうと努める。無関心も深い闇を形成する。本来なら言葉を共有して、共通の相手に立ち向かうべき仲間を攻撃する。学校で家庭で職場で態度や外見をとやかく言われるたびに、自分に注目する華々しい場面や行為に走る。ヘイトスピーチの若者達は、こうして育てられ集う。
 ここにあるのは表現の不能であり、言論の不自由である。支配する側には、堪らなく「おいしい」光景である。それ故政府はヘイトスピーチを、表現の自由を持ち出して放置・擁護する。これが「遅れた」「反日」国家に向けられて、「愛国」意識を募らせ、平和への反感と戦力の誇示による大国意識を醸成することになる。この時日本を植民地のように隷従させている国への視線は、靴を舐めるような卑屈さに彩られる。闘う言葉の教育は焦眉の急務。言論の不自由の中に青年を隔離し続けてはならない。
 闘うとは、まずは知ろうとすること。既存社会に適応させる為に叱咤し「そんなことでは駄目だ」と恐怖させるのではない。
 就活へのアドバイスはもういい説教は聞き飽きた、仕事自体を求めて彼らと街へ出て歩き交渉しよう。言論の不自由に、大胆に駆け寄って言い分を引き出し聞こう。
 不正に「成功」した勝ち組の戯れ言に立ち向かい批判抵抗する言葉を青年が獲得すること、それは当面は身近な親や教師への怒りとして表出するかも知れない。彼らの言葉を聞き共に歩くことをしなかった大人への正当な怒りである。

 「彼ら」が憎しみに満ちて破壊的衝動に駆られるのは、世界から学校から家庭から職場から受け入れられず評価されず立ってさえいられないからである。だから破壊的憎悪の集団が、彼を取り込む。唯一の居場所となっている。
 我々は彼らを受け入れるに、根拠をを求めてはならない。例えば成績や行いがよくなったら、権威ある人物のお墨付きが出たら、・・・等という前提一切なしに受け入れねばならない。そうでなければ「社会参加」はあり得ない。
 自己が対象を定義するから主体的であり得る、対象が自己を決定してしまえば参加は義務と化す。今、学校の地域の企業の行政の「参加」は義務である。戦争という忌まわしい国家犯罪を、参加と呼ばせるのだ。

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