英ロンドン中心部で、 学校への公平な助成を求めるデモに参加した子どもたち |
人権について無知なのか、自分の立場を守るために知らぬふりをしているのか、考えてみようともしないのか、いずれにしろ人権についての認識があいまいであることが、学校の内外での人権の無視・軽視を放置させているのです。さらに、生徒が学校でも社会でも弱者であることが、いっそう生徒の人権を尊重しない風潮をあおっています。ダブル・スタンダードで行動する者は、強い者に弱く、弱い者に強いのが常だからです。
覚えておいてほしいことの第一は、人権はそれを主張するにあたって、何の根拠も前程も必要としないということでず。たとえば、公道上で自動車を運転するためには運転免許証が必要で、これは退路交通法に基づいています。つまり、事を運転する権利は、道路交通法による免許の所有が前提となっているわけです。したがって、国家は法を変えることによって、車を運転する権利を制限したり拡大したり、場合によっては停止したりすることができるのです。しかし、人が公道を歩くのに、まともな国では免許や許可証を必要としません。 これを、「往来の自由」と言います。歩くのに許可書を必要とする社会は、ナチ支配下のヨーロッパなど人権の停止された社会です。
中学生や高校生が頭髪や服装の自由を要求すると、学校や親は生徒に自由にしたい理山、自由にすることの利点…などを挙げるように求めます。もし、学校が頭髪や服装の自由を認めない理由づくりのために、それをしているとしたら、それは学校が人権とは何であるかについて、無知だということを示しています。
頭髪の自由は、後述するとおり人権です。それだけで十分です。人権の一つである生命の自由を主張するのに、根拠や前提を求める人は、誰もいないのと同じです。
第二は、人権は誰も奪えない奮ってはならない個人の権利であるという点です。たとえ国家であっても、人権を奪うことは許されないのです。権利は法律によって奪ったリ、与えたりできます。しかし、人権は国家ですら奪えないのですから、たかが校則で人権を奪うことなど当然できないのです。もし、生徒の人権を無視する校則があれば、校則が聞違っているのです。もちろん、人権を奪う法律も聞違っているのです。たとえば、公立学校の教師は労働組合をつくる権利も、労働条件をめぐって交渉する権利も、ストライキをする権利も、地方公務員法によって奪われています。しかし、先生の多くは、組合を結成して加入するばかりでなく、ときにはストライキも行ないます。
団結権もスト権も労働基本権であり、人権です。法律が間違っているのです。だから、先生たちは堂々と労働組合をつくり、ストライキを行います。
法にそむいてまでも、労働者としての自分たちの人権を守ろうとする教師たちは、生徒の人権についても、同じ姿勢を示す必要があります。
民主社会において法秩序が形成されるのは、法や規則などが人権を侵さないという前提があってのことです。国でも学校でも、秩序を保つためには、「きまりがある以上、守らねばならない」という態度をとるのではなく、人権を奪い不当に制限する間違ったきまりそのものを、なくす必要があるのです。
「子どもの権利条約」では、子どもの人権とともに、子どもの権利についても言及しています。それは、子どもが大人と異なり弱い存在であり、大人とは別に子ども独白の権利が必要だからです。
樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版から
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