天皇のマッカーサー訪問と、彼のために死のうとした少年兵

 天皇のマッカーサー訪問(9月27日)の写真が新聞に載ったのは、敗戦の9月29日であった。天皇はマッカーサーと通訳入りで35分間、話をした。会談の内容は発表されなかった。会見写真は多くの国民に衝撃を与え、外務省は「陛下の恥」として掲載差し止め命令を出したが、GHQの命令で撤回せざるを得なかった。
 その写真の下段に「聖上謁見の米記者に御昭示」という見出しで、ニューヨーク・タイムス記者の質問に答えた天皇の談話がある。
 記者の質問「東条大将は真珠湾に対する攻撃、ルーズヴエルト大統領の言葉をかりるならば、『欺し討ち』を行なうために、宣戦の大詔を使用しその結果米国の参戦を見たのであるが、大詔をかくのごとく使用することが陛下の御意図であったでしょうか」 
 天皇は「宣戦の大詔は東条のごとくにこれを使用することはその意図ではなかった」と答えている。
 「「前理財局長が事実上、指示をした」官僚にすべての責任を押し付け、巨悪の中心はのうのうと居座る。これほどの破廉恥が過去にあっただろうか」メディアでよく見られる表現である。
 既に「これほどの破廉恥が過去にあった」ことを忘れてはならない。それは、ひとまず敗戦直後のこの天皇の発言に辿り着く。彼は死ぬまで逃げ切った。敗戦直後に、日本国民の手で戦犯を裁けなかったツケが国会で、霞ヶ関で露呈している。

 この天皇のマッカーサー訪問を巡る話には、時間が経つにつれて尾鰭がつく。尾鰭がつけば「話」も勝手に泳ぎ始める。大きな尾鰭の一つが、読売新聞に載ったのは1955年9月14日。
 「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という寄稿、執筆は外相の重光葵であった。
 マッカーサーは「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇の発言を紹介したという。 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」 これを受けてマッカーサーは、こう述べたという。 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」
  この時重光外相は訪米を終えたばかり、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会い、マッカーサーとも会談している。
 そもそも、1951年に行われた旧安保条約の調印は、下士官用クラブハウスで行われている。その際、吉田茂は同行の池田勇人に対して「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名した。旧安保条約はこの二つの挿話に象徴されるように屈辱的条約で、占領状態を事実上永続させるものであった。独立国の国民がその内容を知れば、誰もが「反米」意識を掻き立てられる内容でる。日本国民を「宥め」て「煽てる」役割が重光の訪米にはあった。その当面の対策が、大きな尾鰭であったと、僕は思う。

 この時国民は、天皇の「沖縄メッセージ」を知るよしもない。天皇メッセージは、天皇自身の地位がまだ不安定な時期、1947年9月20日付でマッカーサーに届けられている。 日本国憲法施行の4カ月後、極東国際軍事裁判判決の2カ月前である。
 この事実を知るのは、1979年になってからである。知っていればこの尾鰭が薄っぺらな紙である事を直ちに見破ったに違いない。
 60年の新安保第5条では、日本とアメリカは、極東に出動する在日米軍基地が攻撃された場合も、ともに戦争を行なうことを義務づけてしまったのである。

  少年兵として戦艦武蔵に乗り込み、甲板勤務としてはただ一人生き残った渡辺清は、新聞の写真を見た衝撃を日記に書いている。
 「宣戦の大詔は東条のごとくにこれを使用することはその意図ではなかった」 と答えている。
・・・なんという手前勝手な言いのがれだろう。早い話、例の宣戦の詔書にはちゃんと「御名御璽」とあるではないか。「御名御璽」というのは、いってみれば天皇の「実印」のようなものだろう。つまりたしかな承認のしるしである。ということは、どういう形にしろ、天皇に宣戦の「意志」があったということになる。天皇は詔書の末尾に「米英両国卜戦端ヲ開ク二至」ったことは「堂朕(あにちん)力志ナラムヤ」と、わざわざ断り書きを入れたが、自分にその「志」がないのにどうしてそれに署名できたのか。それともこれはあとあとの場合を考えて、あらかじめ責任のがれの逃げ道をつくっておいたのか・・・。とにかくもし質実宣戦の意志がなければ詔書に署名しなければよかったのだ。かりに軍部や政府にそれを強要されたにせよ、天皇にその意志がなければ、あくまで拒否すればよかったのだ。そうすれば詔書そのものも無効になり、当然開戦をくい止めることもできたろう。
 陸海軍を親帥し、元首として統治の大権を掌握していた天皇にそれができなかったはずがない。現に八月十五日には自らの判断で戦争終結の決定を下すことができたではないか……。しかも、ことは世間にありふれた借金の証文などとはわけがちがう。祖国の命運を賭けた宣戦の詔書であった。にもかかわらず、それに「御名御璽」の認印をあたえたところをみると、天皇にははじめから宣戦の意志があったとみなければならない。それでなければ筋が通らぬ。
 それをいまになって「東条のごとくに云々・・・」などというのは、ためにする言いのがれか、その場しのぎの弁解としか思えない。それとも東条とは別の方法で宣戦の詔番を換発するつもりだったのか。かりにまた「東条のごとくに・・・」というのが、そのまま事実だったにしても、いまになって、そんな訳文の出しおくれみたいなことを言うべきではないと思う。 
 元首なら元首らしく「宣戦は自分の責任で命令したことであって、東条だけが負うべきものではない」というぐらいのことがなぜ言えなかったのか。しかも東森は、当時天皇から組閣の大命をうけているのだから、天皇には、そういう彼を総理大臣に任命した責任も当然あるはずだ。それを暗に東条だけに責任をかぶせるようなものの言い方は、保身のための方便と受けとられても仕方があるまい。 
 冷えた風が庭の柿の葉をじやけんにゆすっている。裏の砂利道を空馬力がガラガラと通っていく。
なにか荒涼とした思いが、ぎりぎりと胸にふきあげてくる。『砕かれた神』朝日選書 
  復員した渡辺清は、初め天皇のために死ねなかったことを恥じ悶々としていたが、戦争責任を回避する天皇に次第に疑いを持つ。農作業のあいまに河上肇や大内兵衛などを読み進むうちに、騙されていたことに気付く。それだけではなく、騙されていた自分自身の責任についても考え始める。
 そして彼は、アジアを侵略して膨大な死傷者を出した日本は、再び戦争はしないと決意し実行する事でしか『責任』は果たせないと言い切る。その二十歳の敗戦直後のものの見方に比べて、70年余を経た我々が反って騙されている、自ら騙している。
 時間と共に実体や本質が見えてくるのではなく、巧妙に騙されているのではないか。あらゆるところで歴史が修正・偽造されている。

 1975年10月31日、天皇は日本記者クラブでこう言ってのけている。
 「え・・・この 原子爆弾が投下されたことに対しては ・・・遺憾に思っていますが、こういう戦争中である事ですから広島市民に対しては、気の毒であるがやむをえない事と私は思っています」
 自らの責任に向き合えない者は、他者の責任を追求する資格もない。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...