友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である

完全試合なんてまっぴらだ
友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である。
一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない。
受け取ったら投げ返す。
そのボールが空に描く弧が大きければ大きいほど
受けとるときの手ごたえもずっしりと重いというわけである。
それは現在人が失い欠けている「対話」を回復するための精神のスポーツである。
恋愛は、結婚に形を変えたとたんに消えてしまうこともあるが、
友情は決して何にも形をかえることができない。
     寺山修司「人生なればこそ」


  僕にとって「野球」は 「キャッチボール」そのものである。小学校に入る前から、近所の連中と草野球と言うのも憚られる遊びに励んだ。ルールもバットもなかった。球が無くなると、布の切れっ端や紙を丸めてたこ糸でグルグルに縛ったり、卓球の球や羽子板の羽を羽子板で打ったりした。卓球の球は、思い通りに飛んでくれないので面白かったが飽きるのも早かった。小さい子が混じれば、その子に合わせてルール変更はしょっちゅうだった。


 東京に引っ越すと、バットもミットもルールブックも持つ者がいて少しは草野球らしくなった。それでも、遊ぶ本人たちが自在に「楽しむ」ことが最優先であった。巧すぎる投手や打ち過ぎる打者は、本人さえ面白くない。点差が開きすぎるのは、双方詰まらない。「一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない」という精神からすれば、完全試合なんてまっぴらだった。
 

 散々揉めた末に決まった投手指名制や、守備交代制は楽しかった。前者は、打者が相手チームから投手を指名する。何をやっても下手な僕は、指名投手としては人気があった。球が速くないから打ちやすい、打ちやすいが球速がない分球は山なりに飛んでくるから、どうしても打ち上げてしまう。意外にアウトを取れる。内角高めとか外角低めのリクエスト制も喜ばれた。なかなかストライクにならないのが欠点だった。守備交代制は、みんなが順番にすべてのポジションに一回づつ移動する。ショートだけとか投手だけは許されない。守備場所が変わると、勝手が違ってミスが続出して面白かった。
 何よりよかったのは、大人の介入がなかったことだ。大人はみんな忙しかった。だから工夫が生まれたのだと思う。 あれは、少年が「対話」するための精神のスポーツであった。高度経済成長が、すべてをぶち壊したのだ。「完全試合」とは、高度経済成長の悪夢に他ならない。麻薬が効いている間、悪夢は快楽である。
 
 今あらゆるスポーツを
商業資本が覆って、儲けることが勝つことと同義になった。スキー選手は板のメーカー名が見えるように、カメラの前に立つ。惨めである。サッカーはスポンサーの商標の列に囲われて走り回らされる。野球は、TV画面いっぱいに広告が入るように、打者の背景が割り振られて実に汚らしいし、ユニフォームも宣伝だらけで見苦しい。ヨットレースでさえ帆や船体まで宣伝で埋め尽くされて、美観を損ねている。そのうち力士のまわしや水着にも宣伝が入りそうな気がしている。

 走り回れば無数のバッタが飛び立つ空き地での、子どものボール投げ遊びを「野球と言ってよいか。
 S・バトラーは「定義すること、それは観念という茫漠たる土地を言葉の壁で囲うことである」と言った。茫漠たる土地とは、冒険と自由の空間を示している。「野球」になるとは、冒険と自由の空間」を商業資本が囲い込んで、商標が解き放たれることである。自由な空間から、人間が追放されたのである。歴史の法則から見れば、この後に来るのは「持たぬ者」たちの窮乏化である。

 今や金を出す側の意向だけが先走って、player自身は自由に楽しむことを禁じられている。空間だけではなく時間まで奪われている。メダルやメディアによる賞賛は、「隷属と拘束」の日常を、それこそが生きがいと錯覚させる麻薬である。人は商業主義の奴隷である。そこに、友情や対話の気配はない。

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