恩着せがましさへの嫌悪感

 「一番許しがたい嫌悪感は何か」と、聞かれて五木寛之が応えている。
1965年夏、モスクワの「愚連隊」と語り合っていた

五木 ぼくは図式的に分けて、保守と革新という形、あるいは反動と進歩派というか、その革新の側における、自分は未来のため人民のために働いているんだから、正しいことをしているんだという思い上がり、たとえば選挙があって、革新陣営から推薦人になってくれという依頼があったり、励ます会をやるから発起人になってくれないかといったり、こういうことをやるからカンパをお願いしますといってきたり、そういう場合の頼み万……ぼくはエチケットをいってるんじゃない。自分らはこういう正しいことをしているんだから、当然あんたたちはこれに協賛すべきだという、あたかも昔の白樺派の文人たちに対して、あんた方は流行作家でうんと稼いでいるんだから、こういうことがあったら喜んで免罪符をもらうだろうという感じでの思い上がりが許せない。それはぼくは一番腹が立つんだ。つまり世のため、人のためであろうと、あるいは飯も食わずにやっているのであろうと、それは好きでやっていると思わなきゃいけないですよ。たとえば原爆禁止、あるいは戦争を廃止するための力になっているとしても、あんたたちのやるべきことをおれたちがかわってやってやってるんだというふうな思い上がりは許せない。それがものすごく嫌いだ。青の洞門だってシュヴァイツァーだって好きでやったんだ。少なくとも本人はそう思ってなけりゃ困る。
 昔のやくざというか、股旅とか、旅芸人とか、そういう連中がちょっと身をすくめて軒下をちょろちょろ走るところがあったでしょう。そういう心情がどっかにない、聖職意識でイバリ返ってる革新運動はダメだと思いますね。

                                          「五木寛之・野坂昭如 対論」講談社

 五木寛之は「赤旗」にも度々登場する。その彼の厳しい指摘である。「あんたたちのやるべきことをおれたちがかわってやってやってるんだというふうな思い上がりは許せない。それがものすごく嫌いだ」と言う五木寛之の父は、将来を嘱望された青年皇道哲学者で、軍人の出入りも多かった。子どもにもやたら厳しく、何かと言うと「斬る」が口癖。それが敗戦と母の死によって一気に崩壊。親戚からも見放され闇ブローカーをしたが、アル中になり競輪場で吐血、結核療養所で死んだ。その父の戦中の生き方を、五木寛之は嫌った。しかし敗戦とともに、五木寛之が父を説教するようになる。そして父に初めて友情を感じるようになったという。
  彼の革新勢力の「思い上がり」に対する嫌悪はここから生まれている。新日本文学会を脱退したとき、志賀直哉が中野重治に宛てた書簡にも流れる感情である。

 今「赤旗」は、五木寛之の説教を受け容れる老父のようである。悪くない。

  「青の洞門だってシュヴァイツァーだって好きでやったんだ。少なくとも本人はそう思ってなけりゃ困る」のだが、過労死に追い込まれる程の労働強化の中で、教師たちはその「好きでやっている」実感を持てないでいる
 
 「好きでやっている」実感がなければ、疲れは怒りに転化しやすく「こんなに頑張っているのに」という不満は行政に向かう冷静さを失い生徒たちと保護者に向けられる。
 組合運動にも、好きで走り回る意識が薄れて、「自分らはこういう正しいことをしているんだから」と「聖職意識でイバリ返」る官僚意識が滞積する。それは容易に権力的志向を帯びかねない。シュヴァイツァーのように神の啓示に依存することさえする。

 戦前・戦中の左翼活動家には、「股旅とか、旅芸人とか、そういう連中がちょっと身をすくめて軒下を走る」風情があった。そうしなければ、弾圧が激しくメーデー集会にもたどり着けなかった。哲学者の出隆が党員になり、志賀直哉が中野重治を「世界」の編集委員に推挙したのは、「身をすくめて軒下を走る」姿に打たれたからだと思う。

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