「便所掃除」/ 働く者の誇り / 「闘い」

Fraternitéは倫理的なスローガンである
 左の写真は人種差別に抗議する子どもたちの行動である。「No child is free until ALL are free」こういう類いのプラカードを東京の高校生が掲げて、辺野古の闘いを支援する光景を見ることが出来るだろうか。
 偏差値別に隔離された高校生たちが、連帯して「皆が平等になるまで、誰も平等にはなれない」と偏差値体制に抗議して座り込むことがありうるだろうか。
 土曜日曜も正月も部活に励む少年たちが、「僕らの先生に休みを」と横断幕を掲げて新宿や銀座をデモ行進することはどうか。
 又教師たちが、卒業する生徒たちの雇用と奨学制度を巡ってストをうち、ハンストを事態改善まで実行し続けるのはただの夢想だろうか。

  「自由・平等・友愛」は「Liberté, Égalité, Fraternité 」の訳。ポール・チボーによれば、Fraternitéは倫理的なスローガンである。つまり、友愛とは他者に対する親愛の念というだけではない。社会・共同体への義務・奉仕を意味するのである。
  選別によって隔離され底辺へ位置づけられたものは、自己肯定感を持つことが常に極めて難しい。何時までも、社会の「損な役回り」をあてがわれ続ける。まるで囚人のように、誰もやりたがらない仕事を驚くべきべき低賃金で、誰も知らない場所で、誰もいない時にやらされる。
 だが、ここに誰もやりたがらない仕事を通して、誇り高い労働と職場を作り上げた闘う鉄道員の詩がある。

        便所掃除    濱口國雄


扉をあけます / 頭のしんまでくさくなります / まともに見ることが出来ません / 神経までしびれる悲しいよごしかたです / 澄んだ夜明けの空気もくさくします / 掃除がいっペんにいやになります / むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう / けつの穴でも曲がっているのでしょう / それともよっぽどあわてたのでしょう / おこったところで美しくなりません / 美しくするのが僕らの務めです / 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます / 静かに水を流します / ババ糞に おそるおそる箒をあてます / ポトン ポトン 便壷に落ちます / ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します / 心臓 爪の先までくさくします / 落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません / たわしに砂をつけます / 手を突き入れて磨きます / 汚水が顔にかかります / くちびるにもつきます / そんな事にかまっていられません / ゴリゴリ美しくするのが目的です / その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします / 大きな性器も落します

朝風が壺から顔をなぜ上げます / 心も糞になれて来ます / 水を流します / 心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます / キンカクシのうらまで丁寧にふきます / 社会悪をふきとる思いでカいっぱいふきます

もう一度水をかけます / 雑巾で仕上げをいたします / クレゾール液をまきます / 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
 / 静かな うれしい気持ですわっています / 朝の光が便器に反射します / クレゾール液が 糞壷の中から七色の光で照らします /
便所を美しくする娘は / 美しい子供をうむ といった母を思い出します / 僕は男です / 美しい妻に会えるかも知れません

                     1956年 「便所掃除」で国鉄詩人賞を受賞

 濱口國雄は国鉄職員だった。彼とその仲間は臭くて汚い便所掃除を通して、誇りある職場を築き挙げた。それが世界で最も時間に正確で事故の少ない乗り心地の良い鉄道を作り上げた。その誇りが合唱団や文学サークルなどの芸術に結実した。

 文化的歴史的遺産と言うべき、それらの積み重ねをぶち壊したのは、先ずGHQであった。松川事件・三鷹事件・下山事件によって強引な人員整理を強制したが、濱口國雄は詩を作り仲間を励まし闘い続けた。1973年には『闘う国鉄労働者 : 反合理化・スト権奪還の旗手』(共著)を書き上げている。1987年の国鉄民営化は、便所掃除を見せしめの「罰」にして労働を侮辱する「日勤教育」を拡大、その結果は107名の死者を出す福知山線脱線事故となって現れた。資本への隷属は、働く者から誇りを奪い友愛の精神を根絶やしにしたのだ。

 少年たちは、大人の動向に鋭敏である。例えば、父親が銀行の管理職の子どもは、小学校で「お前なんかバツバツだ」と叫んで級友虐めに加わった。家庭で父親が、勤務査定の内実を口走るのを聞いて真似るのだ。大人が競争に目の色を変え、他人を蹴落とすことに喜びを隠しきれない時、少年に正義と連帯を説くことが出来るわけがない。その間隙を縫うように始まるのが、教科「道徳」である。しかし、労働から誇りを奪った今、どんな教訓的美談があると言うのだ。

 誇り高く働き生きた記憶を身体に強く留める老人たちが、辺野古で座り込み、国会前で迫り来る戦争に抗議の声を挙げているとき、青少年はスポーツの深く長い酔いから未だ覚めない。

   僕が下町の工高で政治・経済を受け持っていたとき、修学旅行中の私服着用を求めて三年生ほぼ全員が、整然と中庭に円陣を組んで座り込んだことがある。教師代表との交渉が受け容れられると、三年生は会場を体育館に移動することを求めた。1・2 年生の授業を妨害したくないと言うのだ。移動するとき、彼らは周りのゴミを拾い始めた。自分たちが捨てたものも前からあったものも拾って、いつもよりすっかり綺麗になってしまった。要求を掲げて闘う過程で生まれる倫理。その底にあったのは、自他の人格の自覚である。これこそ自由である。彼らはこの座り込みの準備に一週間をかけていた。もちろん要求は実現した。見事な結束であった。

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