自分の国を誉め続けるほどの惨めさよ

 自ら滅ぼしつつあるもの、ありもしないことを、誇りたがる癖がこの国にはあった。『武士道』・「天皇=現人神」に続いて「日本モデル」。内閣府による鳴り物入りの「クールジャパン戦略」政策は、新作の「ありもしない」こと造りに気も狂わんばかり。しかし膨大な予算と権力を伴っていることが、現象のケバケバしさの実態を軽々と暴露している。

 例えば『フランス人がときめいた日本の美術館』と言う番組が繰り返されている。だが元になった本の原題は「The Art Lover's Guide to Japanese Museums」、何処にも「フランス人がときめいた」などとは書いていないのに自己賛美。
   『世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!! 視察団』 この種の番組が競って称賛する類いの技術・気質・製品は、かつて日本中に溢れて、わざわざ宣伝して誇るほどのものでは無かった。しかしそれらが絶えそうになった時、権力はそれらを保護育成するどころか「近代化の邪魔」と見なして積極的に駆逐したのである。消えそうなにると慌てて、「スゴイ」と「外人」に言わせて悦に入る。


 大金と力を背景に「国の素晴らしさ」を煽らねばならぬほど、この国は衰退してしまった。ナチスが何処にも存在しないアーリアン人種に縋ったように、「何よりダメな」このこの国も虚像に縋る。

 この政権のウリである経済は、発足時498兆円あったGDPは2020年には485兆円。一人当たりの実質賃金は6%も減少。経済競争力も、シンガポール、香港、台湾、中国、韓国、マレーシア、タイの後塵を排する始末である。役立たぬ米国製兵器の爆買いには胸を張る。
 断トツに「何よりダメ」を白状しているのが、「自国による日本スゴイ」現象なのだ。だからこれらの番組では「白人」を多用して、近隣諸国を中傷する。 
   ドイツ言論界では、cool japan風に「自分の国をほめる」という行為は、いかがわしい行為と見られる。多くの言論人、報道関係者は、cool japan風に「自分の国をほめる」記事や特集に眉を顰める。メディアの仕事は批判的な分析という合意があるからだ。
 ドイツに限らず、欧米の言論・報道は「日本スゴイ」が横行するる日本とは異質である。月刊誌も「日本スゴイ」をやれば売れる。だが「日本スゴイ」は、自国に自信を失った証である。自国について自信がああれば、「日本スゴイ」を必要としない。

 フィンランドにはバラエティ番組はない。一番人気は討論番組で、二番目がニュース番組、三番目はドキュメンタリー番組だ。親が夕方の六時ごろに帰宅して、テレビ番組を見ながら子供たちと語り合うと言う。そもそも、午後や深夜にまでtv電波を飛ばして、国民を愚民化する神経を持っていない。静かで安らぎに満ちた時空が、日本から絶滅しつつある。

 「私が若いころ、ジャーナリズムはもっとかっこいいものでした。64年、米国がベトナム戦争に介入を深めるきっかけになったトンキン湾事件が起きました。ニューヨーク・タイムズは米政府の機密文書を入手し、事件が米軍の偽装工作だったことをスクープします。当時、同紙の幹部は社内の会議でこう言ったそうです。「これからタイムズは政府と戦う。圧力がかかり新聞も売れなくなるかもしれない。そうなったら輪転機牽一階に上げて社屋の一階を売ろう。
それでもダメなら二階も売る。輪転機を最上階の十四階まで上げることになっても戦おう」今、こんな気概があるでしょうか。問われているのはジャーナリズムも同じだと思います森まゆみ

 ジャーナリズムが政権の広報に堕落し太鼓持ち化したことの、重要な部分を高校教師は負わねばならないと僕は考えている。1960年代、高校の新聞部は社研や演劇部などと並んで批判的言論表現活動熱心だった。しかし生徒は政治的評論に躊躇しなかったが、教師たちはいい顔はしなかった。僕は「指導」と言う語句を、この「いい顔はしない」教師たち抜きに思い浮かべることは出来ない。
 そのころ僕は、多感な高校生だった。活動的な生徒自治会やサークルが次々と、(生徒会費凍結などの)兵糧攻めで消滅していた。文部省の意向で、生徒会予算と活動に職員会議が介入したのである、文化祭の会計にも細かく目を光らせ始めた。デモにもカメラを構えた教師が付きまとった。僕たちはいくつかの高校と集まりを続けていたが、「僕たちの高校も、もう一緒にやれなくなった」と寂しく別れを告げる高校が相次いだ。話し合いが終わったあとの夕闇をトボトボと駅に向かった光景を忘れられない。
 自治的言論表現活動に代わるように、担任の「学級通信」が登場する。「学級通信」は初めから広報に過ぎなかった。派手派手しく「学級通信」集が出版され、アッという間に全国を席巻した。日刊だの夕刊だの形式だけが競われ、学校新聞消滅に拍車がかかった。今や担任の「学級通信」も息切れ。snsが席巻しているからだ。少し前 https://zheibon.blogspot.com/2019/03/blog-post_28.html  に書いたものに加筆。

 批判的言論表現活動が絶滅した高校を
もはや「学園」とは言えない。教師が授業に関心を失い、学校が教育に自信を失ったからこそ、批判的言論表現活動を消滅させたことを識る必要がある。
  自信のない食堂が「美味い」「極上」などと書いたのぼり旗や看板に頼るように、怪しい構造の建て売り住宅が色彩感覚の壊れたのぼり旗で人を欺さねばならぬように、学校正面には、部活や合格実績の垂れ幕が見苦しく乱舞する。
   政策に自信もなく行動も怪しい議員は、電通に媚びメディア露出、
街中にポスターを貼りっ放し景観を壊して恥じない。学者は権力に媚び、論文を窃盗して恥じない。学歴詐称はありふれた現象となった。

   旗立てる事が日本に多くなり  
 と鶴彬が川柳を詠んだのは1932年。上海事変や五・一五事件が起きた。

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