理想のライオンはいない

  企業でも学校でも、採用する側は理想の若者や生徒がいると考えている。重役は独創的で協調性のある若者が、学校は文武両道の生徒がいると信じて採用活動をする。彼らの多くが、旧制高校や大学の話を持ち出す。あの頃の学生たちは、知的にも優れていたが、オリンピックにも出るほどの運動能力も兼ね備えていたと。それはスポーツする暇とカネのあるのは彼らだけだったからだ。すると、オリンピックに出ることまで求めはしないが、都大会を目指して練習に打ち込み受験にも励むのが過大な要求だとは思わないし、生徒もそれを理想としているという。
 会社の重役も似ている。創造性と協調性を兼ね備えた人材が欲しいという。

  強くて足の速いライオンはいるだろうか。いるに違いない、だからこそ百獣の王と言うのだと、言いたくもなる。しかし理想のライオンはいない。強いライオンとは破壊力が大きいことを意味し、顎が大きい。つまり頭が大きく、そのためには体も大きくなければならない。従って足の速いのは小型のライオンである。では、顎と足のバランスのいいライオンが優位に立つのか。どのような組み合わせが最適なのか、サバンナの状況は変遷してやまないから、組み合わせ自体が一定しない。
 期待されるライオン像などと言うものはないのである。様々なライオンが存在することが、ライオン界にとっては「理想」になる。
 あるとき、頑張るライオンが集まったことがある。獲物が多いと殺しすぎて、獲物そのものを減少させてライオンに餓死する個体が現れる。

  ライオンの品評会は開けない。豚や鶏には品評会もあり、人間の嗜好と経済性によって選別改良され金メダルが与えられる。豚や鶏は家畜であり、存在自体が人間に従属しているからだ。人間に金メダルがあるのを疑え。オリンピックだろうが、ノーベル賞だろうが、高校生の数学オリンピックだろうが、オスカー賞だろうが、人間をブランド豚扱いしている。考えてみろ。エリザベス女王やラーマ9世が、その国民に特別の感情を持って迎えられるのは、100メートルを9秒で走れたり、オードリー・ヘップバーンのように美しかったりするからではない。存在自体が尊いと思われているからである。東大法学部や医学部に入ったり出たりして、金メダルを並べて、へぇーと感心されるのは、この国では人間をその存在自体で重んじる精神に欠けているからなのだ。学校の正面に「△◇部○○くん、××大会出場」という垂れ幕をぶら下げることが、いかに見下げた行為かわかるだろう。「凡人」であることを誇れないのは悲しむべきことなのだ。皇室は、凡人だらけ、世界の王室も凡人だらけである。
 「期待される人間像」を偉そうにかかげた政府を持つことは、実に情けなく恥ずかしいことなのだ。
  サルトルはノーベル賞を辞退してこう言っている。
 「想像してごらんなさい。栄誉を得て、そしてその後転落していく作家と、栄誉はないが常に今一歩前進していく作家と、この2つの作家のうち、どちらが本当に栄誉に値するのでしょうか」
  王家やメダリストばかりが尊ばれているのは、「凡人」が軽んじられていることの裏返しなのだ。ベトナムのレ・ドゥク・トはノーベル平和賞を辞退して
「ベトナムにまだ平和が訪れていない」 
と言い切った。彼の脳裏にあったのは、フランスや日本との長い闘いを支え犠牲になった普通の人々、それこそが主権者、であったに違いない。脳天気に笑顔を浮かべて賞を受け取ったキッシンジャーとは天と地の差がある。

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