まず自らの特権を破壊しなければ、権利への「闘争」は始まらない

 土田義雄(全生園患者自治会初代委員長)が感嘆した八路軍の規律が全兵士に受け容れられなければ、八路軍自体が中国人民に受け容れられなかっただろう。全兵士に規律の徹底をはかるには、将校の特権を廃止しなければならない。権利のための闘争の第一歩は、自らの特権の廃止でなければならない。
 日本陸軍二等兵の月給が6円の時(1943年)、軍曹30円、少尉70円、少佐220円、大将550円であった。このほか将校には当番兵や送り迎えの車がついた。食料や嗜好品にも大幅な優遇があった。
 この頂点に立ったのは大元帥天皇である。皇族の誰一人戦死していない。彼らは自らの「特権」のためだけに存在した。

 三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ」  渡辺清  

 東条ら軍中枢にとって「軍人勅諭」は、大元帥も遵守すべきという絶対性を欠いていた。常に自分たちだけは例外という「特権」の一つでしかなかった。 

 だから、負けて特権が消滅した途端、雨に打たれた張り子の虎よろしくへなへなと崩れたのだ。
 上陸する占領軍に向かって石ころ一つ投げた者さえない。日本人婦女子を襲う米兵に斬り込んだ者もない。まるで何もなかったかのように恩給生活に入ったのである。特権に塗れた者たちは、特権の維持だけに全精力を注ぎ込み必ず腐り果てる。
 
 ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた(当初は16%だったが、患者の待遇改善そっちのけで、職員の特権だけは「改善」している)。らい予防法がもたらしたおぞましき費用である。この他にも、多くの特権があって驚天動地の不正の温床となっていたが、多すぎて書き切れない。他日整理する。
 全生園のある東村山では、条例で「らい患者と相対する職員への危険手当」を支給した。これらの手当は、危険手当が付く程の恐ろし病気という観念を職員・教師・市民に植え付け偏見を煽る効果を持っていた。同時に危険手当正当化の為には、ハンセン病は恐ろしい病気と言い続けなければならなかった。
 日本らい学会を、「らい業界」なのだと言った人がいる。的を射ている。人の不幸・絶望を利権化したのである。醜いのは病気ではない、制度である。これをおぞましいと言わずにおれるか。

 全生園に危険手当をよしとせず拒否し続けた職員があった。1985年、介護職員5名が「危険手当」への異議を申し立て、法務局に手当額を供託したのである。24%もの特権的手当を不当として放棄、職員の側から予防法に問題提起した意義は大きい。だが
次第に職員間で疎んじられ、支援も広がらず5人は退職に追い込まれた。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の行動提起はこれを受けてのことであったのか。先覚者の孤立・苦難である。
 長い間ハンセン病療養所では、地元農家の人々が雇われ、専門家は稀であった。一家数人で園に勤めたり農業収入もあり、組合には関心が薄かった。危険手当を拒否したのはこうした地元の人ではなかった。

 日本らい学会が世界の潮流から孤立してハンセン病者の絶対隔離に固執し続けた背景には、この特権としての危険手当がある。

 全生学園患者教師・武六ニ四(6月24日に生まれて六ニ四と名付けられた)は、軍人恩給を拒否している(彼は発病前、小倉の西部防衛司令部勤務だった)。
 ハンセン病療養所では、医療費ですら一般病院の僅か1/13に過ぎず、日用品費や食費に至ってはまさに奴隷以下であった。それゆえ軍人恩給受給者はハンセン病者にとって善望の的であった。患者は若いうちから強制収容されたから、年金などを手にする者は元軍人以外になかった。

 ハンセン病には女性が少ない。若い女性患者のもとには独身男性患者が押し寄せたが、女性たちは軍人恩給受給者に押し寄せた。
 武先生は、着るものにも頓着しない質素な生活を貫き、新しいものが手に入れば惜しまず人に与えた。豊かな教養と穏やかな人格に、派遣教師たちも敬意を抱いた。数学と実験と工作がうまかった。武先生は、特権を憎んでいたのではないか。(軍人恩給を申請すれば、ハンセン病罹患の事実が地元に知られ家族に迷惑が係ることを畏れたのだとも言われる。事実先生は家族に一切連絡をしていない。諦めず八方手を尽くしていた家族は、先生の死の間際ようやく面会出来たのである)
 特権の高みにある者は、皆との平等な権利に執着できない。自らを別して高みに置くことの危うさ見苦しさを見聞きするには、戦中の軍司令部勤務に勝る経験はない。そこには特権に胡座をかく将校と特権を求めて忖度・迎合する輩が溢れていた。皆と雑魚寝して同じ粗食に耐える丸裸の知性は、存在の証明を知識の根源的批判に求める以外に無い。ここに生まれるのが矜持である。集い語り学びあえば誰もが仲間であり、出自が優劣をもたらすことはない。そこに現れるのが知識人である。

 全生学園患者教師たちの矜持に満ちた生き方やピカイチの教育実践も、土田義雄の業績と同じように取り上げられることはない。だから僕は、『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を書かずにおれなかった。

患者教師ほど顕彰に値する人たちはない
 遅すぎるが、彼らの業績を顕彰すべきだと思う。
 新聞社の「教育賞」には、教師自身が自薦して校長会が審査するという、絶望的な構図がある。もし患者教師が生きていた頃新聞社「教育賞」があっても、自らを推薦することは絶対になかったに違いない。あらゆる栄典は、彼らハンセン病者を対象にした後初めて輝くものになる。

 逆境のなかで人知れず自尊の姿勢を崩さない者は、舞台の表面にあって浴びる脚光を反射している者とは違って、何の注意も払わずとも自動的に知覚されうるようなものではない、・・・密かに保つ精神的自立・・・隠然たる矜持・・・それらの・・・底深く隠された精神的本質に到達するには、共感と義侠心を含めたありったけの注目と眼光を・・・注ぎ込まなければならない・・・そうする時、当面の表面的世界が示す舞台装置を超えて─深みへと超えて─・・・普遍的価値が始めて姿を現すのである。 藤田省三のこの文章も患者教師の前ではなんとも力を失うではないか。なぜなら土田や患者教師たちの見せた「普遍的価値」は、いまだに「姿を現す」機会を閉ざされているからである。

   大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。 しかし、表裏一体論は、官僚内部の交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先さる風潮は官庁街を闊歩している。権利も人権も押さえつける力は「特権」である。しかも「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後のしかも「私的」見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   日本らい学会が予防法廃止決議に踏み切り、自己批判書を公にしたのは1995年4月。 1995年7月、島比呂志は弁護士へ書簡を送り、次いで「法曹の責任」を発表、ハンセン病者の人権救済を求めたのである。「らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だといわれ出して、どれだけの歳月を浪費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたことか、その苦しみは無実の死刑囚にも匹敵する。・・・黙認してい法曹界は(らい予防法)存続を支持していると受け取られても仕方があるまい。・・・傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である」島比呂志そう言い切った。九州の弁護士たちは、たちまちのうちに137名で弁護団を結成。「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が組織された。
 1996年、国会はらい予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定から89年もの歳月を浪費、分教室閉鎖から17年を要したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの特権は死守した。
 あろうことか、ライ学会が自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞してことを納めようとした。この時彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


記 身近で小さなことを考えたい。例えば生徒は教師の胸元を掴んだり、座席を無断で移動しただけで退学処分だ。他方教師は生徒の顔面を殴打しても蹴っても「指導の一環」や「熱血漢」で済んでしまう。これは生徒から見れば、卑怯極まる特権以外の何物でもない。学校が若者の権利獲得・擁護の前衛であるためには、教師の特権を、管理職の特権を、教育行政官僚の特権を先ず廃止しなければならない。これを止めるのは簡単である、ただ決意して実行すれば良い。それが出来ないのは、我々教師が旧軍人たちと同じように「特権」が生徒や授業より好きなのに違いない。せめて職員室の掃除は自分たちでやろう。

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