「啐啄の機」と平和教育

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 吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。
  私は、逆説的かもしれませんけれど、戦争体験をもった人びとは、その体験を自分の心の中に大切にしておいて、あまり人にしゃべらないほうがいい、と考えています。 
 わかってもらおうとして、しゃべればしゃべるほど体験が磨滅していって、体験の表皮だけが言葉になって残るという結果になりかねないからです。 
 逆に経験した事実についてならば、あまり深刻にならないで、自分のことでも客観的に語ってゆくようなゆとりをもって、人に話したほうがいいと思います。どこまでが経験で、どこからが体験か、その間に明確な線はひけませんから、私のいっていることも相対的な区別にすぎませんけれど、そういう気持で経験を話すほうが正確に多くのことが相手に伝わると思います。 
 そして、体験のほうはソッとしておくことです。このように、自分の体験をウソなしに語ることがむずかしいということを心得て、口に出さず、じっと心の奥に持ちこたえているならば、かえってあるキッカケで、パッと相手に通じるという結果を生む場合もあるのです。 
 たとえば、空襲で焼け死んだ人びとの死骸処理をやった人が、そのときの思いをじっと心にひそめていて、あるとき、空襲について軽薄な調子で人びとがおしゃべりをしているのを耳にし、我慢ができなくなって「バカ、そんなもんじゃないぞ」と一言いったとします。その二言の中に、その人のそれまで口に出してはいえなかった気持がこめられていたら、一座のおしゃべりは、その一言でしゅんとしてしまうでしょう。 
 厳粛な事実の厳粛さは、それだけで相手に通じるのです。総じて、客観的な事実や科学的夷理は言葉で語って伝えることができますけれど、まるごとの真実というものは、わかりあえる条件が熟さないと、伝えようとしても伝えられない、というのが本当のところだと思います。 
 禅宗では啐啄の機といって、卵の中のひよ子が育って外に出ようとするのと、親が外から殻をつき破るのとが、機をあやまたず一致するように、弟子が悟りに近づいて熟してきたときに、師が機をあやまたずに適切な導きを与えるという、そのかねあいの重要さを説いていますが、たしかに、事柄によっては、受けとる者と伝える者と、双方に条件が熟したときに、はじめてわかると言うものがあるのですね。いろいろ価値の中には、そのようにしてはじめてわかる価値もあると思います。 
 平和運動というような大衆運動の中では、なかなか、そんなことはいっていられないでしょうが平和運動を人びとの魂の中に定着させてゆくためには、やはり、運動を進めてゆく人の一人ひとりの中に、こういう内面性はあったほうがいいのではありませんか。小学校の先生の場合でも、同じだろうと思います」 (1972年『科学と思想』春季号)


 よいこと、必要なこと、疑う余地のないことと言いながら、教育の機微を無視したスケジュール消化的押しつけが罷り通る。平和を巡って、教える側・学ぶ側・伝える側の内的「機」の成熟を準備し、それを鋭く感知する能力こそが望まれている。それは、平和教育にとどまらない、自治教育、憲法教育・・・教育のあらゆる分野に要請されている。それ故、教案の画一的強制は愚の骨頂である。「啐啄の機」には、生徒の成長を敏感に捉える「余裕」が欠かせない。余裕は、先ずは時間と存在の尊厳である。生徒や地域の生活を共感的に受け容れるということだ。そのためには自治体が小さいことは必須の条件だ。地域を知ることが、そのまま保護者の労働と生活を知ることであり、家庭を知ることに繋がる。「啐啄の機」はそこに潜んでいる筈だ。大きいことばかりに振り回される東京では至難のことだ。

 ある学校のある教科で、恒例の学年末教員旅行があった。幹事教師による修学旅行並みの見学予定が示され、学習ポイント・地図・旅館の由緒など情報満載の小冊子までがつくられたという。お土産を買う店・記念写真撮影ポイント・トイレ休憩・コーヒータイム・・・それが分単位で事細かに書かれていた。
 何のための旅なのか、お行儀よい強制移動ではないか。ここに人生の一コマは生まれない、浪費そのものである。自律性も固有の実体もない。大人に対して無礼だとは誰も思わなかったのか。いや子どもに対しても失敬だ。
 これをつくった教師は鼻高々、周りもさすがと賞賛した。次の年はさらに細かくなるだろう。宿の歴史や夕ご飯の紹介・旅館での禁止事項・所持品チェック表・・・。「よいこと」だから恒例だからこうなる。僕なら参加しない、家族と風呂にゆく。
  

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