選別体制下のアクティブ・ラーニング / 教科「公共」

「公共」の指導要領は新語法で書かれている
 アクティブラーニングに、政府が言及したのは、2012年8月の中央教育審議会答申である。生徒が能動的に学ぶ授業が期待されていると、色めきだった教師は少なくない。生徒が、体験学習やグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどで「能動的」に学べば「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」ことが出来るとうたったのである。   
  笑止千万である。一切の自由を縛り上げられた教師が、一体どうやって生徒を能動的に出来るというのだ。Freedom is  slavery. そのものではないか。横文字を使えば恐れ入るだろうとの軽薄さに満ちている。

 
 元々アクティブ・ラーニングは大学で展開されていた。教師自体が組織からも政府からも自立し、教科書も学習内容も方法も自由に構成できる環境にあって初めて実現出来る方法である。それでも上手くいってはいない。

 検閲した教科書をあてがわれ、挙動を日常的に監視され、過労死するほどの多忙な勤務の中で、何が出来るのだ。居眠りも出来ない。たとえどんなに忙しくとも、優れたマニュアルに基づいて人工知能を活用すれば、厳しい管理と規律によって実現出来ると考えたのであろうか。まるで生徒は兵隊、教師は下士官、管理職が将校のようである。まさに「汎用的能力の育成を図る」普通科連隊の訓練である。人工知能を活用する産業戦士育成を視野に据えている。戦士とはおとなしく戦死する者たちのことだ。人工知能革命のその先には大量人員整理が待っている。

 さすがに恥ずかしくなったのか2018年指導要領では、アクティブラーニングの語は消えて「主体的・対話的で深い学び」と言い直されている。僕はTVバラエティ番組の「人生が変わる1分間の深イイ話」というタイトルを思った。一分間にまとめられる軽薄な話を、壇上に並んだ芸能人たちに聞かせて頷く様子を画面に入れる。
  ここに文教族たちの思惑がある。かつて国民共有の財産を外資に明け渡して、「感動した」を連発したライオン髪首相がいた。国民が求める詳しい報告と熟議をせせら笑うように繰り出した、単語の連発をマスコミは歓迎したのである。紙面が節約でき、調査報道が省けるからだ。調査報道を省いた紙面や画面に現れるのは、現状を自然現象のように肯定する傾向である。9.11も3.11も永い歴史的経過が省かれ、衝撃的な現象の「鑑賞」から一歩も出ない。そこから始まったのは、ブッシュの嘘を真に受けての、主権国家イラクへの徹底的攻撃であり、その裏で蠢動する民営化した戦争の実態と本質は省かれた。3.11も対米従属下の核政策を押し流すように津波の映像が繰り返され、莫大な復興予算を浪費する災害資本の暗躍が碌な議会審議も経ぬまま黙認されたのである。国民は「食べて応援」の短いフレーズにここでも思考を断ち切られている。

  はじめから破綻は見えていた。アクティブラーニングが鳴り物入りで喧伝されたのは、裕福な家庭の偏差値の高い良い子たちが集まる学校だけだ。謂わば陸海軍幼年学校で、趣味的に取り組まれたに過ぎない。何を教えても教えなくても、万事そつなくこなす連中だけを集めて「教育」である筈がない。
 雑多な階層の多様な「物騒な」生徒たちもお坊ちゃんも集う学校で、緊張に満ちて取り組まれないで何がアクティブか。アクティブとは、粒ぞろいの居心地の良い教室でお行儀良く取り組まれるものであってはならない。授業後、直ちに街に出て行動する青年になるのでなければ、浮き輪抱えた畳の上の水練に過ぎない。
 it革命で首を切る側になる階層の子弟と首を切られる側になる階層の子弟が、互いに隔離されて展開されるアクティブラーニングは、全てよそ事として構成される。社会の矛盾がそのまま反映される教室を、政界も財界も恐れている。
 
 新教科「公共」には、2006年の「新」教育基本法の意図が思い通りには浸透しない文教族のイライラが結晶している。新教科指導要領を「精査」して解説した本が幾つも出ている。何故わざわざ解説して展開例を書かねばならないのか。それは指導要領が、分けても新教科「公共」 指導要領が、『1984』並の新語法に満ちているからだ。
 日本国憲法や旧教育基本法が、そのまま読まれたような「明晰」さはあり得ない。上意下達の通達が明晰であるとすれば、国民が新語法にすっかり馴染んだ時である。


    教科書調査官だった「学者」などが加わった解説書に共通することがもう一つ。それは、遡及的思考が無いことだある。コナンドイルは、ホームズに『緋色の研究』でワトソンに向かってこう言わせている。
 「うまく説明できないものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。・・・仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出することのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ」

  僕は9.11事件を授業で扱う時必ず使った映像がある。Occupation: A Film about the Harvard Living Wage Sit-In on Vimeo   この映像を使ったnhk海外ドキュメントもある。こちらは日本語である。
 2001年春、つまり9.11事件の半年前のアメリカの雰囲気が分かる。2000年にはワシントンで反グローバリゼーションの大規模デモが行われいた。そして 世界の「テロ」件数が急速に増加し、多くが中東か南アジアで発生するようになったのは、2004年頃からである。つまり9.11以前の世界は、相対的に穏やかであった。我々の多くは、事件の報道が衝撃的であったために、事件以前を忘れたのである。そこにイスラムのテロ組織の残虐性と中東世界の不安定性が書き込まれ、記憶と化したのである。それ故、ブッシュがイランに大量破壊兵器があると言えば「さもありなん」と受け容れてしまったのである。『遡及的に推理』したり、『分析的に推理する』ことで我々は、より実態に迫ることが出来るはずである。
 非正規労働を扱った学習プランを見れば、非正規労働が増え始めたのは何時で、それ以前の労働はどうであったかは考察されない。あたかも自然現象であるかのように、非正規と正規を選択の対象として選ばせようとしている。福祉であれ外交であれ、これからどうするのかだけを問う。政権の課題を浸透させる構図となっている。


 
 

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