藤野先生は自分の授業をどう考えていただろうか |
投票する側もされる側も、普段の政治活動を盛んにして、選挙期間は静かに日頃の活動を反省考察したい。
卒業は、もう学ぶことはないことを自他ともに確認した瞬間唐突に訪れる。その個別の瞬間を、同じ時に括る「式」は無茶で無意味である。学びの足りない者も、とっくに超えた者も一括りにして涙で誤魔化す。。
満腹も個別的である。一斉に満腹するはずがないのに、揃えたがる。死ぬのは更に個別的であらねばならぬ。しかし死までも揃えたがっている。高齢者の終末医療は打ち切れと言い出した者がある。終活の行き着く先は、一斉終末を告げる儀式だろうか。揃えられないものを、効率やケジメという呪いに惑わされ儀式で時期を揃えようとする、絶滅収容所が我々の日常に侵入しているのだ。揃えてはならぬもの、揃える必要のないものは放置する覚悟が必要になっている。
卒業式は、同窓会と同じように虚像に過ぎない。どちらにとっても、蓄えられた知識や交友が実像である。結婚式は結婚生活に先立って作られる拡大された虚像であり、その虚像に合わせて実生活が営まれる。虚像がきらびやかな程、実生活との裂け目は大きく破綻する。虚像を結ばせるレンズや凹面鏡にあたるのが、仕来りや世間であり既に企業化が極まっている。現実は虚像に追いつかない。
授業にとって、実像は未来にある。突然あるいは緩やかに授業や教師の生き様が思い出されて、現実を変革したり解釈構想する武器になる時現れるのが実像である。
魯迅の書斎には藤野先生の写真がかけてあった。「仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び正人君子の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである」と言う具合だ。
行動を促した言葉が、誰の教えであったか全く意識に上らないことも多い。我々が教壇で行うのは、未来の実像=成果を目指して虚像を見せる悲しい作業である。授業が思い出されたとき、我々はとっくに惚けたり死んだりしているのだから。
藤野先生は、自分の授業をどう思っていただろうか。先生の肖像が、北京の書斎で魯迅の勇気を奮い起こしているとき、藤野先生はそのことを知る由もなかった。我々は、「正人君子の連中に深く憎まれる」ことで歴史の中の実像に近づきたい。
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