指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得る

皆がプロミンを注射してもらえるまではと、
注射の希望を申し出ることはしなかった
 ハンセン病特効薬・プロミン獲得の功労者は、土田義雄をおいてない。しかし彼は表に出ることをよしとしなかった。
 土田は1914年東京市生まれ。慶応大学中退。1935年徴兵、翌年3月軽度癩を発病したが軽快退所して1939年はじめ連隊に復帰、戦闘中八路軍の捕虜になった。そのとき、八路軍が階級の別なく寝食をともにし、厳しい軍律のもとでそれぞれの能力に応じて役割を果す姿に驚嘆したという。野坂参三にも出会ったらしい。
 どういう経路で全生園に戻ったかはわからないが、土田の元に園内の若い理論家たちが集い「博友会」を結成して、百家争鳴の時代風潮を形成した。1947年には多磨全生会会長の渡辺城山を訪ね、入園者の困窮救済を話し合い「生活擁護同盟」を結成している。
  「あたかも革命のようだった」と言われる10日間は、←クリック この「生活擁護同盟」による自治と民主化を求めた大会の事である。

 1948年2月、土田は最初の患者自治会会長に選出されたが、執行部の揉め事から、3ヶ月足らずで総辞職。1948年10月、鈴木寅雄を委員長にプロミン獲得促進委員会が発足したとき、湯川を副委員長にと鈴木に推薦したのは土田だった。この頃の土田は、かなり病状を悪化させていたが、皆がプロミンを注射してもらえるまではと、注射の希望を申し出ることはしなかった。当時はヤミでプロミンを売っており、湯川もそれを注射をしてもらった。土田が金には困っていないのを知って湯川は、ついでに買ってこようと待ちかけたが断られた。
 土田のこのような高潔な人柄は、誰からも好感を持たれ、共産党を心底嫌っていた園長の林芳信までが誉めていた。湯川は西田哲学に心酔していたが、土田との交流を深めるうちに共産主義に魅力を感じ、共産党に入党している。後年土田の人柄について尋ねられた時「泰山の安きに置く」の譬えを持ち出し、どこかにいてもらえれば安心だったと言っている。
 プロミン獲得闘争のあと、多磨全生園患者自治会は全国組織の結成を提案し、1950年5月には「全国癩療養所患者協議会」の結成を、それはさらに1953年の「らい予防法闘争」における全患協の活動へとつながった。このように、プロミン獲得促進委員会の活動は、全患協の闘う組織としての自信になっている。
 1950年5月29日、土田は急逝した。死亡診断書には、直接死因肺結核、継続期間三カ年とある。享年35。短い間に、良いしきたりをいくつも残し、反対派にも惜しまれた。
 「指導者はそのリーダーシップを安定させるために、それを制度化することを求める。それが制度化されると共に組織の自動性が生じ、かくして"指導者"というものは影を没するようになる。指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得るのである」 三木清
 絶対隔雅の、管理統制に逆らって患者の真の自治を求め先駆けた土田義雄は、自己否定的という点でも希有の指導者であった。

  「皆がプロミンを注射してもらえるまではと、注射の希望を申し出ることはしなかった」土田の姿勢が、人権感覚であり、金や地位を利用して自己の有利をはかるのが、特権意識である。白木屋秘書であった慶応ボーイのクラシック音楽愛好者に、八路軍が与えた精神的衝撃の深さを思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...