権力ある人間のうそと、無権力の人間のうそには比較できない。権力をもたない人間が抵抗するときに、うそをつく権利を奪われて、お手上げになっちゃったらいったいどうなるのか、という問題がある。権力をもたない人間からうそをつく権利を奪ってはならない。というのが武谷三男の道徳論の基礎にある。権力者の嘘は特権であり、力の無い民衆の嘘は人権である。
京都の商家には子どもの嘘を喜ぶ習わしがあった
柳田国男が、京都の商家に生まれた幼児が初めてうそをついた時のことをどこかに書いている。
子どもがお使いをする歳になった。商店街に笊を持って油揚げを買いに行く。何度目かに油揚げが一枚ない。
「カラスが飛んできてな、咥えて逃げていったん」と子どもは言った。家中が一寸した騒ぎになった。「ボンがうそついたでー」「そりゃめでたい」「赤飯炊きなはれ」
こどもは油揚げを盗んだ咎めを受けるのではなく、「うそをつくほどに知恵がついた」と成長を喜ぶべき存在として認識されている。嘘がばれたのに、こんなに大げさに祝福されては、もう嘘はつけない。子どもは自分がどんなに愛されているのか実感するのだ。
天皇権力は、壮大なうその体系「万世一系」や「生き神」で、縁もゆかりもない熊襲や出雲まで欺した。挙げ句の果ては他国民にまで「八紘一宇」の(決して同意を求めたり討議することはなく)珍妙なうそのに巻き込み、数千万人を殺害し自然を蹂躙したのだ。
子どもや少年/少女の「うそ」がいけないと説教するなら、まず始まりの「万世一系のうそ」から手をつけなければならない。首相が「放射能はアンダーコントロール」と平然と嘘をつくのも、オリンピック招致で「東京の8月は温暖で理想的」と笑顔で欺せるのも、「うその万世一系」に源泉がある。元を絶たないから嘘はいくらで湧き出す。
権力ある者のうそを曝き、権力を持たない者のうそを権利として守り場合によっては代弁するのが教師の任務である。幼い者のうそを祝う文化を学校こそは持つ必要がある。
そんな甘いこと言っていてもいいのか。大いにそうでなければならない。「あの先生だけは欺せないよ」と言われないことを恥じねばならない。甘いことを言うべきではない相手は生徒ではない、権力である。力ある者に忖度や迎合を繰り返せば、厳しい言葉は行き所を失って権力のない者に向かうのだ。
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