自然には独自のリズムがある 少年の自立と成長には深く静かな時が欠かせない

粘り強さは熊と狼さえ結ぶ
 一匹のジリスが、望みのない状況で生き延びる勇気を見せてくれたことがある。若い雌オオカミが、まだ生きているジリスを口にくわえてきて地面におろし、ネコがネズミをもてあそぶようにジリスと戯れ始めた。口を開いて歯をむき出し、獲物のそばを前足でとんとんと踏み、真横に寝そべってうなり声を出す。ジリスは健気にもその場を動かずにいたが、やがてとうとう身体を動かして後ろ足で立ち上がった。ジリス特有の歯を見せ、ボクシングでもするように前足をオオカミに向かって伸ばす。ぜんぜん釣り合わない動物たちの〝対戦″は10分近く続き、別の一歳オオカミが雌オオカミの注意をそらせた隙に、ジリスは走り去って身を隠した。
 粘り強さと忍耐は、私も持ちたいと願う野生だ。・・・自然には独自のリズムがあって、私たちが急いでいることなど気にしない。

 野生動物の研究になくてはならない性質は、忍耐、つまり待つ能力。眠っているオオカミを何時間も観察したいという気持ち。ものの30分で退屈する二本脚生物(人間)もいる一方、オオカミからすでに学んだ筋金入りのウォッチャーもいて、オオカミが目を覚ますまで、必要とあれば氷点下30度の戸外で4時間待つこともある。
 高スピードのデジタル時代にあって、野生動物の観察は癒しや落ち着きを与えてくれる。動物たちは、いくらでも時間があるような印象を与える。オオカミがしとめたシカを例にとってみよう。ハイイログマがやってきて死骸を横取りすると、ライバルのオオカミたちを追い払った。死骸に草や土をかぶせてその上に寝転がり、午睡をとる。クマの典型的な行動だ。五匹のオオカミはクマの周囲でまるくなって眠っている。木々のてっぺんに数羽のハクトウワシがとまり、ものはしげに餌を見下ろす。
 みんな辛抱強く待っている。クマが目を覚まして去っていくのを。いつかは餌が手に入ることを知っているから。
 自然には独自の時間がある。長時間観察を続けると、そのことが感じられる。人間の尺度では測れないことがたくさんあるのだ。『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館

 青少年の自立を促す教員に欠かせない素養も、学校の尺度では測れぬ少年たち独自の時間(若い教師であれば、数年前までは少年だったはずなのに、早々とそのことを忘れていることに危機感を持つ必要がある)を感じること、長時間観察に耐えることだ。

 王子工高のM君は、遅刻(並の遅刻ではない、二時間、三時間はざらで六時間目終了間際に登校したこともあった。)と授業中の居眠り(教卓の真ん前で、折りたたんだバスタオルを枕に熟睡する)掃除もせずサッサと不機嫌な顔のまま下校、その他諸々・・・。
 彼の少年らしい快活さが戻るのに、二年半かかった。僕は会議の度に「優秀な担任は、こうした生徒を早期に退学させるものだ」と咎められて胃が痛くなった。

 M君の父親は度々登校して「息子を殴って下さい」と懇願した。「それは僕の仕事ではありません」と言い続けた。
 不思議なことにいつもギリギリの点を取り、実習や実験レポートもすれすれで提出して進級した。教科担任の中にはM君の顔を忘れちゃった人もいたほどだ。

 秋のある日の倫理の授業中、突然M君が起きあがって腕組みして僕を睨んだ。「よう久しぶりだな」と言おうとしたが、険しい顔付きに押されて無駄口が出なかった。かなり長い時間を真ん前で身じろぎもせず睨み続けた。数日後、数人が「先生、大変だよ。来てよ」と駆け込んできた。慌てて駆けつければ、「あいつが掃除してるんだ、大変だよ」とM君に聞こえるように言う。箒を握ったM君が笑いながら僕を見ている。「うん、これは大変だな」と笑い返した。それから、彼は卒業まで一日も遅刻せず登校し、居眠りもしなかった。彼の生活の変貌振りは、微笑ましく凄まじかったがここでは書くまい。


 僕自身は、これはこの時の授業(「実存とは何か」)のお陰だと考えていた。
 「親や教師から説教されると、それが正しいと分かってもムカッとする。人間は、自分でももうこんなことは辞めようと思っているときに、そのことで説教されると殊更ムカッとするものなんだ。この反応を「反抗」と呼ぶ、反抗は誇りある人間の証だ」と
講じていた時、M君はガバッと起き上がった。僕はこのことを「不当強調」したい誘惑に駆られた。大切なのはM君の主観において考察することだ。「不当強調」は倫理上の罪である。

  M君は、学校や家庭の常識に振り回され続けた。「このままではろくな大人にはなれない」「世の中は甘くない」と。だがM君は、一方的に説教される客体ではなく、状況に主観的に自らを投入する主体である。そのことに気付き始めていたのではないか。M君が自力で辿って得たものこそ思想である。彼は、学校や親の一方的断定に押されて、心が受動的=パッシブになった二年以上を「沈黙」の中にあった。彼は「自由と不自由の際」に自ら立った。
 「青年は荒野を目指す」という科白があった。少年はいつか「自由と不自由の際」=荒野に立ったことを自ら自覚して青年になる。教師や親の判断に依存するのではなく、自身の主観において世界を引き受ける。それが自立である。
 M君が二年余の眠りから目覚めたのは、僕の授業のおかげだと思ったのはただの傲慢だった。


 飼育を拒否して自立するには、安逸な「檻」から自らを隔離しなければならない。だからM君は敢えて堂々と「寝た」のだ。アランが、考えるためには「静かで暗く長い時間」が必要と言ったのはこのことだった。
その長い時間を作り耐えたのは、彼自身である。
 哲学は、少年/少女ら自身の中にある。我々が「教えてやる」ものではない。

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