我々は平等と画一を区別することを知らない |
「母親の席次を、クラスで付けることに賛成しますか。やるとしたら何を基準にしますか」と問いを投げ返しようやく収まった。
バイキングが南下して、フランスノルマンディーに植民したのは10世紀。911年にカロリング朝のシャルル3世は、バイキングのキリスト教化と臣従を謀り使者を送り「首領は誰か、何処にいる」と尋ねた。バイキングの返事は「そんな者はいない、俺たちはみんな同じだ」とこたえた。しかしフランスとバイキングの交渉はまとまり、バイキングはキリスト教に改宗し領地を受け取ることになった。しかし領地を受け取るには臣従の証として、王の足に口づけしなければならない。馬鹿らしくなったバイキングは、王の足を掴んで引っ繰り返してしまった。初代ノルマン公には、そんな話が伝えられている。これが北欧の民主主義の基礎をなす平等主義の源流だと言われる。
我々日本住民は、何故順位付けされたがるのか。何故平等を忌避するのか。公立高校の選別を煽る政治を報道も父兄も後押しする。週刊誌は毎年、高校別大学合格者を集計する。
希望する者だけが参加し、あらゆる特権を排するならば、競争による順位付けにも僅かな利点があるかも知れない。しかし公立学校の選抜は、教育を受ける権利を持つ国民全てが、避けては通れない関門である。管理や競争の好きな行政や教員の口癖に「そんなに嫌なら受験しなければ良かったのだ」がある。勘違いしてはいけない。知らなかった者には適応されないのを「人権」とは言わない。そこが何処であれ、それが誰であれ適用される概念で無ければ「人権」ではない。
偏差値依存とメダル至上主義と血統信仰は、服従の証であるという点で同一である。なぜなら、賞を与える側と受け取る側、そしてそれを眺めて賞賛拍手するの三者には絶対的落差があるからである。
ノーベル賞騒ぎや甲子園や芥川賞報道も、従属せずにはおれないこの民族の弱点を象徴している。相手が強ければ、どんな無理難題も進んで受け容れ従属し、弱いとみるや言語道断に服従を強いて睥睨する。
平等の原則のないところに福祉の概念は根を下ろさない。それは生活保護に対する国民意識と行政の態度に露骨に表れている。
デンマークのフレデリックⅦ世は戴冠式を廃止した。彼の在位中は、シュレスゥィヒとホルスタイン両州の帰属を巡る隣国ドイツとの危機の最中であった。彼はこの国難に力量を発揮せず凡庸であったと伝えられる。しかし危機の最中に、凡庸でないことほど迷惑なことはない。デンマーク未曾有の国難の意外な展開は「小国主義 1 内村鑑三『デンマルク国の話』抄」に記した。←click
日本の将軍や天皇にこうした気持ちを僅かでも持った者があったか。この国のあらゆる集団に「小天皇制」が蔓延り、人々はそれに憧れる始末だ。何故か、天皇や小天皇の地位を高める程にその周辺に群がる者の「権威」も高まる馬鹿げた効果があるからだ。個人の自立した精神や誇りを組織の名の下に置くことに何の羞恥心も湧き上がらないのは、我々が体の芯から奴隷根性に縛られている為である。
例えば、ある高校の偏差値が高くなれば、そこに通う生徒の「頭」や「精神」の何処が高まるのだろうか。日本の勤め人が企業のバッジやネームタグを付けたがるのは、企業の名にただ乗りを目論む怠惰が個人としての誇りを埋没させてしまうからに他ならない。
学年が僅かに違うだけで最敬礼し上級生を天皇・神様扱いて身の回りの世話や後片付けを「進んで」やることが、少年少女たちの美徳になっている。この国に平等の精神も民主主義は近づけない。
生活保護行政の冷酷さは、我々のこうした平等忌避の日常に根を張り勢いを増すばかり。我々の日常の隅々に「平等」の感覚が行き渡るのでなければ、行政は決して変わらない。教育において最も身近で深刻に平等を破壊抑圧しているものは、選別「体制」である、それが福祉行政学習の基礎でなければならない。
福祉行政を我々が授業で取り上げるとき、選別体制下の諸々の「反平等主義」に触れないわけにはゆかない。福祉行政をせめて世界水準にするためには、我々の身近な生活を覆い尽くす「反平等主義」的慣行や制度を血がでるほど刮ぎ落とす必要がある。小さなことで言えば、新天皇の即位に関する儀式を一切やめると同時に、企業の入社式や学校に於ける離着任式をやめる必要がある。これらを「カルト」だけに特有の馬鹿げた習わしにする決意が求められている。又、毎日の「起立・礼」をやめたい。
追記 画一が好きなら、何故報酬を画一化しないのか。税金は、貧富の差を無視して同一税率が画一的に適用される消費税を「公平」と支持する者が、収入には画一性を排除する。一貫性がない。その一貫性のない主張を支えるのが、偏差値による選別である。数字で序列化されたものに、誤魔化され易い。それに我が国民は子どもの頃から馴らされる。
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