学級が「home」 roomと呼ばれるのは何故か Ⅰ

言葉は行動から生まれる
 「底辺校」に異動して気持が荒んだ教師が、自ら養護学校(特別支援学校をこう呼んでいた)に転じて穏やかになったことを語った教育研究集会の古いメモが出てきた。1980年代のことだ。
 全く口をきかず教室を飛び出し暴れ回る一人に一年以上手を焼き続けたが、彼はある日暴れ回る生徒と一緒に走り回ることにした。生徒が疲れれば、先生は子どもをリヤカーに乗せて校庭を走り回った。走り回ることがどんなに気持ちいいか初めて気が付いた。そうすると不思議なもので、手を焼くのが苦にならない。ある夕方下校する生徒を教室からボーッと眺めていると、件の生徒が突然振り向いて手を振ったのである。嬉しくて眠れなかった。次の朝その生徒は、教室を見上げ初めて口を開いた。「先生おはよー」と言ったのである。しかし、それからも厄介ごとは絶えず、ちっとも教室に落ち着かない。雪の日も校庭を一緒に走り回り、ようやく給食を落ち着いて食べるようになるのに更に一年。
 この話をしてくれた教師は「お陰で気が長くなりましたよ、でももうあんなに走り回れません」と頭を掻いた。

 学校が僅か一学期間の付け焼き刃や一週間の泥縄で「結果をみせ」ねばならぬ社会になり、実績を見せろと教師が教師を追いつめる。他の教師を追い詰めることが「成果」になるのだ。「結果」は紆余曲折の果てに出るものであって、一日や一週間で出せるものではない。

 金融自由化以来、社会全体が短気になった。いじめも体罰もパワハラもそうした雰囲気が作り出す。生徒が動かないからと生徒部は鬼の目して、期限を細分化して成果を担任に迫って生徒を追い立てる。動かないことは、動けないことは犯罪なのか。

 長年「底辺校」に勤め各種行事での熱血指導振りが報道で賞賛された教師が、学区一番の進学校に異動を命じられた。底辺校では梃子でも動かない生徒が、進学高では行事も学習も生徒が「勝手に」動く。彼は、突然手持ち無沙汰になった。することがなく詰まらない。妙なことではないか。それまで手を抜いていた教科の研究が忙しくない訳がない。彼は組合活動家でもあった、様々な職場を訪ね、話を聞く重要な任務もある。生徒が選別・分断・隔離される中で、どう闘えば良いのか。どんな教育条件が、あらゆる高校生を自主的にのびのびと活動させるのか。考え闘うことは山積みだったはずだ。
 彼は梃子でも動かない生徒を、見事に動かし賞賛されることに生きがいを見出していた。黒子であるべき担任が主人公になってしまった。いつの間にか、生徒が彼の指示で動くこと自体に、喜びを感じていた。生徒が自主的に動くことではない。例えば合唱祭か近づけば6時間目が終わると同時に教室に鍵をかけ、逃げられないようにして合唱の練習をした。その「甲斐」あって合唱祭当日の「涙と感動」の場面は、多くのメディアが詰めかける名物にもなった。これは「奴隷的監禁」ではないか。指示し指示され、その結果にともに涙を流す爛れた関係を構築してしまった。結果さえ「涙の感動」であれば何をしても良いという思考停止の悪い癖が我々にはある。

 僕は雨の学徒出陣を撮った映画を思い出した。当時日本中が涙を流しながらこの映画を見て、殺戮の地獄に突入したのだ。僕はこの「奴隷的監禁」の高校と同じ学区で担任をしていたが、文化祭の時クラスで「行事は強制ではない、嫌な者は自由に逃げてもいい。逃げる自由とは、逃げる者を批判せず、仲間という関係を壊さないとだ」と言わずにはおれなかった。進学校と底辺校の間に広がる「秩序」ある広大な闇、その闇に反乱しない生徒と教師をつくっているのが「偏差値」による選別体制なのだ。

 生徒が動かないことが前提の養護学校では、担任も追いつめられることは少ない。追い詰めるのはいつも「ランキング」=勤務評定「計量化されて一目瞭然だから、逆らいにくく批判しにくい。

 ランキングから外れた養護学校。だから一緒に走り回れた。学校の意図に沿う「涙と感動」を拒否する「底辺」の生徒の方が、実は自主的で知的なのだ。それを読めないから、教師が脳梗塞で倒れ、発狂する。情けない話だ。
       
 学級がhome roomと呼ばれるのは何故か。homeとは盗んでも咎めらず、貢献を強制されず居るだけで喜ばれる領域。「戦場」に向けて出撃して獲物を持ち帰る基地ではない。学級=home roomは
そういうものとして構想された、初めは。
 「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔

 国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であるのに対して、homeとしての学級は何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
 出世や受験などの成功を懇願する家庭─それはもはやhomeではない。仲間の成立を不可能にする労働
─それは労働ではなく苦役。学校の部活、委員会、アルバイトも少年や青年の友情を絶望的なものにしている。進歩的な親や教師すら、部活は生徒学生の要求だと見なしている。宗教組織さえ、寄付や勧誘が「自主的」ノルマ化するのは何故か。人間は順位が決まらないと落ち着かない犬なのか。噛み付くことが習性の爬虫類なのか。甲殻類になって、いつも外敵に備えねば居ても立っても居られないのか。

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