四谷二中 6 洟を垂らした普賢菩薩

  「俺もたまには満点の答案を母ちゃんに見せたいよ。いいじゃないか」と言ってクラスぐるみの「カンニング」に引き摺り込んだのも
  「見えない何にも見えない 意地悪だよ、たわし、少しは見えるようにしてくれよ」とみんなを笑わせたのも、Z君である。A君に数学を教えている時、彼も寄ってきて「俺にも教えてくれよ」と仲間に加わり、「分かったよ、たわしありがとう」と、青洟を垂らしそうにしてやはり笑うのだった。だがテストになると、零点。僕に向かって零点のついた答案を見せて、ニコニコする。忘れやすい奴だと思っていた。しかし退職して、気が付くのたが、彼は点数を取ることに興味がなかったのではないか。分かる過程は楽しむが、点数を競って我を張ること(頑張る)はしない、そういう世界観を持っていたのではないだろうかと思う。受験地獄に堕ちそうな僕に警告していたような気さえする。
  学期末、Z君は自分の通信簿を持ってきて
 「たわし、お前の通信簿見せてくれよ」といいながら広げる。
 「・・・お前の成績と俺の成績は丁度反対だね」明るく言う。
  「たわしの成績と俺の成績を足して二で割ると真ん中の三になる。・・・なぁ、おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友だ」と顔を覗き込むようにして言う。

 卒業間際、べそをかきそうな顔して
 「俺たちと二中のこと、忘れないでくれよな。・・・でもきっとお前、俺たちのこと忘れるだろうな・・・」と言った。それがZ君に会った最後である。僕は卒業式をサボった。

 軒下の高い窓を拭くのも、コークスを運ぶのも喜んでやった。骨惜しみしない根っからの善人だった。忘れがたい思い出の数々に彼がいる。住んでいたのは、新宿天竜寺の裏、旭町の木賃宿。着ている制服も粗末だったが、それらが彼の快活さを妨げることはなかった。そのZ君と拾得が二重写しになる。

 芥川龍之介にごく短い小説『東洋の秋』がある。
 主人公は「云ひやうのない疲労と倦怠・・・を感じてゐた。寸刻も休みない」ある日、公園でふたりの男にあう。「竹箒を動かしながら、路上に明るく散り乱れた篠懸の落葉を掃いてゐる。・・・破れ衣と云ひ・・・公園の掃除をする人夫の類とは思はれない」。突然鴉が二三羽「黙然と箒を使つてゐる二人の肩や頭の上へ、先を争つて舞ひ下さがつた。が、二人は依然として、砂上に秋を撒散らした篠懸の落葉を掃いてゐる」。主人公のこころには「疲労と倦怠の代りに、何時しか静な悦びがしつとりと薄明るく溢れてゐた。」そして「寒山拾得は生きてゐる。永劫の流転を閲しながらも、今日猶この公園の篠懸の落葉を掻いてゐる」と思うのである。
 
  寒山は唐代の隠者、詩人である。拾得は実在とも、寒山の説話に付け加えられた架空の人物とも。寒山拾得は、文殊菩薩、普賢菩薩であるとの言い伝えが古くからある。それを芥川は「東洋の夢」という。菩薩は人の姿になってこの世に遊びに来ていると。

   寒山、拾得が文殊、普賢なら、Z君もそうではないかと思うことがある。新宿天竜寺は曹洞宗、開祖の道元は宗派を否定した。普賢菩薩が遊ぶにはいい場所である。信心があって思うのではない。Z君のような実在が、人々に「東洋の夢」を描かせるのである。 僕は教員になって、幾人かの寒山や拾得に会った。

  高速増殖炉に「もんじゅ」、新型転換炉には「ふげん」と、名付けた学歴と身分を誇る者たちの浅はかさをおもう。
 永平寺の西田正法事務局長は
菩薩の知恵を借りて無事故を願ったのなら浅はかな考えだった。仏教者として世間にざんげすることから始めたい(2011年10月26日 読売新聞)と振り返っている

  普賢とは、文字通り普遍の賢者を意味する。内村鑑三は「智き愚人」という言葉を使っている。彼は『後世への最大遺物 デンマルク国の話』を
 「外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。・・・国に・・・「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。・・・軽佻浮薄の経世家を警むべきであります」と結んでいる。
  国を学校に置き換えてみる。
 国家が外に向かって領土を拡げようとするように、学校は外に向かって設備や偏差値と進学実績を誇って競争する。 競争して非規格生徒を他校に押し付けて、勝者たらんとする。そんな醜悪で消耗過多なことより、学校と地域の平凡な日常を充実しなければならない。ダルガスは不毛の荒野に黙々と、木を植え気候を変え豊かな国土を出現させ、Z君の如き「智き愚人」が何人もいて、受験競争と非教育反教育的環境の闇に飲み込まれて愚連そうな僕らを、瀬戸際で守ったような気がする。

  『ライ麦畑でつかまえて』で、サリンジャーが不良高校生ホールデンにこう言わせている。
  「・・・だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。・・・それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。・・・ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ
 学校が社会であろうとするならば、不良も「智き愚人」も 拾得も優等生と共に不可欠である。四谷二中にはそれが揃っていた。

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