「はき違え」た自由と自由権

  近頃の高校生は、立ち番教師の側に来て、片足を門外に出してからかう。だが校門から出ようとはしない。生徒は、規律正しくなったなどと喜んでいる場合ではない。生徒の自主規制が無意識の領域に沈み込み、意識も組織体制も「従属」化しているのだから。
 それを促進歓迎する教師には、教員の政治的自由や思想・表現の自由への自主規制と「従属」化が迫っているのだから。      

  1970~1980年代、下町の高校生たちは、果敢に立ち番教師に挑んだ。立ち番とは、昼休みに交代で校門に立って生徒を見張る詰まらない仕事である。兵営の習慣を安易に取り入れている。折角軍隊をなくしたのに簡単に復活してしまうのは、こうした習慣を断ち切ることが出来ないからである。
 ある年の生徒会長選挙で、会長候補が校門開放要求を掲げた。当選と同時に管理職や生徒部長に直接談判した。埒があかないとみて、彼は自分自身が立ち番教師に食って掛かっている隙に、大勢の仲間を脇から外に出した。それが駄目になると、わざわざ校門立ち番教師に見えるところから塀を越えて逃げてみせる。怒った立ち番が追っかけてくるのを確認しながら走る。その隙に生徒たちはぞろぞろと出る。高校生たちの作戦は、神経的持久戦でもあった。教師たちは疲れ始める。無断外出は訓戒の対象だからである。訓戒は生徒を追いつめるのではない、教師を疲弊させるものなのだ。なぜなら教育的訓戒は、生徒の権利であるからである。
 「正門周辺は学校内と解釈しよう」「パンだけじゃ高校生は腹が減るよ。食堂の設置を検討しよう」との意見が教員側にも出て来る。
 遂に生徒の要求を聞くことになる。食堂設置も検討した。大阪府は奨励していたが、東京都はいい顔しない。しかし都立高校で食堂のあるところもある。調べてみるとなるほどめんどくさい、時間もかかる。でも生徒は行って調べてくる。結局、とりあえずいくつかの弁当業者に打診をして、定時制の食堂を借りて売って貰うことにした。

 この顛末に納得しない者たちもあった。、外出は理由がなければいけないのかと問うのである。弁当販売で誤魔化されないぞ、というわけだ。
  学校側は必要のない外出を咎め、生徒は理由のない閉鎖拘束を問題にする。生徒の自由概念が、教師のそれを質的に凌駕している。
  高校生の行動は、先ず「我が儘・勝手」な自由として現れる。処罰を覚悟して、自由を味わう。それを「自由のはき違え」と自由嫌いは言う。「はき違え」なら「はき替え」を促さなければならない。しかし「自由のはき違え」を言う者は、自由を諦めさせるのが狙いである。外に出てぶらぶらしたければ、放課後にしろと言う。しかしそれをごり押しするのは、教委や管理職が我々に「政治的自由」を言うなら教員を辞めればいいというのと変わらない。
 僕は、目的なしにぶらぶらすることも大切だと思う。そうして発見し学ぶことは、教室で学ぶことの欠陥や狭さを補う。出席が足りなくなることを引き受けて、映画館や美術館に行くことはもっといい。
 住友3Mには「十一時間ルール」という制度があって、一週間に11時間までをペナルティなしで自由に使える。遅刻しても、昼休みを延長して博物館を楽しんでもいい。この制度を使って昼休みに美術館に入り、美術に関する英国政府短期留学生募集のポスターを見た短大出のOLが、応募して勉学を重ねるうちに、英国の大学院に進み英国の研究者となった話を僕は3Mの重役から聞いたことがある。こうして得られる個人の豊かさが、仕事の質にも反映すると彼は説明した。 好奇心は、何時どこでどのように刺激され、どこまでどのように成長するか分からない。学校もこうした事実に畏敬の念を持ち、この制度に学びたいものである。

 処分覚悟の「我が儘・勝手」の自由を、高校生たちが「自由権」として学校に認めさせる運動を組織し行動するのを見守りたい。「自由権」則ち「権利としての自由」とは、それを行使したことを理由に不利益を被らないということである。公民科は高校生が自らの手で「自由権」を獲得する根拠を与える、それがこの教科に与えられた歴史的任務である。
 勿論、積極的に教員側が権利としての自由を認めて、丁寧に説明することも重要である。その過程で教員も「自由のはき違え」を言う自分の認識の浅さについて知ることが出来る。学校全体が、社会全体が豊かさを増すのである。自由をはき違えているのは、大人たちである。


追記 学校には非常勤を含めれば100人が働く。にもかかわらず食堂はない、休憩室もない、更衣室さえない。原則として昼休みも 構内に止まる職場、例えば銀行支店などは小さくとも食堂があって複数のおばさんが賄いをする。
 出前やコンビニの弁当を、埃の舞い立つ職員室で仕事をしながら食べる。そんな貧困極まる食生活の教師に「食育」を押しつけるのだから呆れる。生徒の昼食を権利の問題として考えれば、自分たちの労働環境の劣悪さにも気付くことになる。
  曾ては冷房さえなかった。人が大勢いる場所で冷房がなかったのは学校と刑務所である。

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