「真実の発見」からの逃走としての両論併記

  政治的中立と両論併記。流行りの二つが社会科(公民と地歴)教師を萎縮させ、教委や文科官僚が傲慢さを増す。新聞社も、主権者教育の出前授業に入れ込んで、自己宣伝に余念がない。
 ある高校で、生徒が消費増税と救急車有料化を巡って二つのグループに分かれて議論、投票の大切さを学ぶ様子が佐賀新聞にあった。消費増税と現状維持が一体何の両論なのか。税制についてなら、消費税廃止、所得税増税、企業減税廃止などが省かれるのは何故か。直近の税の局所現象に拘泥させて、実態報道しようともしない。本質を問うことなど想いもよらない。議論の最右翼部分の僅かな違いを取り上げて、両論という。子ども向けの低級な騙しだ。そしてそれが、投票の問題として語られる。主権者の意思表示を投票だけに限定するのだ。街頭行動やストライキ、集会・言論による主権行使を高校生には制限して、他方では広告代理店やマスメディアによる虚偽の与論操作はやり放題。主権とは何かについての両論は問題にすらならない。主権とは有権者になり投票所の前で突然発生するものではない。こどもであっても主権者なのである。政治的権利について年齢で制限されているのは、投票だけであることを忘れてはいけない。

  芥川賞作家がその傾向に強い懸念を表明している。
 「友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の癒着、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、彼が僕を心底嫌そうに見ながら「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。 「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。 当時の僕は、こんな人もいるのだな、と思った程度だった。その言葉の恐ろしさをはっきり自覚したのはもっと後のことになる。・・・
 
昨年急に目立つようになったのはメディアでの「両論併記」というものだ。政府のやることに厳しい目を向けるのがマスコミとして当然なのに、「多様な意見を紹介しろ」という「善的」な理由で「政府への批判」が巧妙に弱められる仕組み。
 否定意見に肯定意見を加えれば、政府への批判は「印象として」プラマイゼロとなり、批判がムーブメントを起こすほどの過熱に結びつかなくなる。実に上手(うま)い戦略である。それに甘んじているマスコミの態度は驚愕(きょうがく)に値する


・・・ ネットも今の流れを後押ししていた。人は自分の顔が隠れる時、躊躇(ちゅうちょ)なく内面の攻撃性を解放する。だが、自分の正体を隠し人を攻撃する癖をつけるのは、その本人にとってよくない。攻撃される相手が可哀想とかいう善悪の問題というより、これは正体を隠す側のプライドの問題だ。僕の人格は酷(ひど)く褒められたものじゃないが、せめてそんな格好悪いことだけはしないようにしている。今すぐやめた方が、無理なら徐々にやめた方が本人にとっていい。人間の攻撃性は違う良いエネルギーに転化することもできるから、他のことにその力を注いだ方がきっと楽しい。  「大きな出来事が起きた時、その表面だけを見て感情的になるのではなく、あらゆる方向からその事柄を見つめ、裏には何があり、誰が得をするかまで見極める必要がある。歴史の流れは全て自然発生的に動くのではなく、意図的に誘導されることが多々ある。いずれにしろ、今年は決定的な一年になるだろう」  中村文則「不惑を前に僕たちは」2017.1.8朝日新聞


 作家は、両論併記で「政府への批判は「印象として」プラマイゼロとなり」と書くが、政府にとって大きなプラスになるのではないか。様々な見解・意見が二つに絞り込まれる過程で、政府見解から遠いものほど落とされるからである。
 ヨーロッパや南米の政治で大きな役割を演じている高校生は、日本では政治活動から大きく除外されいてる。教員が政治的中立を名目に、生徒に真実を語ることを既に躊躇している。
 もう一度、子どもの権利条約を読もう。そしてこの条約が作られた経緯を知らねばならない。

  両論併記も政治的中立も、「真実の発見」からの逃走であってはならない。

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