高校生は限度を知らないか

   「教職の学生が「本当は体育の免許が取りたかった。高校は陸上スカウト。監督に殴られて育った。限度を知らない高校生に校則を押しつけるのは必要です」と書いてきました」。大学で社会科教育法を教える渥美先生からのメールである。
 法的な「限度」を超え、教育的「限度」を知らない監督に、殴られて育った学生が、限度を知らずに育ったのである。特殊自分の体験を直ちに一般化している。彼女が限度を知らないことを、高校生一般が限度を知らないに広げてはいけない。それこそ、限度を心得ない無知と言える。
 狭く皮相な経験主義。読んで背筋が凍る。光のない闇・・・ではなく、光を吸収破壊するブラックホールとしてのファシズムの気配がある。立憲主義を理解しない政権と同質の無知と傲慢が、教師を目指す学生の中にまである。その最大の温床は部活であることをこの学生が示唆している。
 こんな学生たちに効くのは何だろうか、mailをくれた友人の苦悩を察する。ただ、彼女たちは余りにも経験に欠けている。経験と時が解決することもある。(本ブログ、「体罰を止めさせるために」の、下町のリベラルな工高に、以下の段落を参照願う)
                                                                                                     
  高校生には体罰で思い知らせねばならぬとしたら、一体いつから体罰は必要でなくなるのか。高校卒業と共にか。気に入らなければ、工場の職制やコンビニの店長も部下を罵り殴る。国家の暴力装置ないでは悲惨なリンチさえ加えられる。
 限度を知らねばならないのは、力を有する者たち。体罰をふるう側であり、君が代を強いる者たちである。政府閣僚でありながら、改憲を画策するものたちである。
 個人の生活に於いて「限度」は「たとえ一人であっても、私は~しない」という孤独な内面の決意に裏付けられなねばらない。たとえ上官の命令であっても略奪強姦はしない、国家の命令であっても人殺しはしない。それが「私にとっての」限度ではないか。道徳はひとり一人の内面にあってこそ輝きを見せるのである。
 不正や法令違反を暴かれて、知事や閣僚が「問題ない」を平然と連呼する。そういう輩が国民に外的枠を罰則付きではめるのだ。彼らこそ「限度」を知らない。
 
  S高の準備室で熱心な部活顧問に電話があって、電話の向こう側ではどうやら彼が指導するクラブの卒業生が泣いている。
 「・・・分かって呉れたか、おまえだったら何時か分かってくれると思っていたよ・・・」 殴られて反発していたが数年を経て、顧問の気持ちがやっと分かったというやりとりのようであった。日曜も夏休みも正月もない「毅然」とした厳しい軍隊調の指導をウリにしていた。僕はやや皮肉を込めて「いい話だね」と言ったのだが通じたのか、顔が引きつった。
 ある三年生女子が授業中突然、彼に
 「先生、私たちのこと嫌いでしょう。だって授業が面白くない」と批判したのはその頃のことである。彼は授業にも自信を持っていた。が、別のクラスでも似たことを優等生から言われる。

 教師にとっての「限度」。部活が「限度」を見えなくしている。際限のない練習と罵声、際限のない勤務時間。限度を超えることを、教育愛と言ってしまう雰囲気がある。しかし「授業」そのものに際限のなさが現れることはない。部活・研修・出張・報告・その他の雑務は必死にこなして、授業か教師の命が削られるのである。
 このクラブの生徒は、雨が降っても、顧問が休んでも激しい練習を欠かすことはなかった。顧問がいない日ぐらいはさぼって、お茶を飲んだらどうだと唆しても、笑うだけで練習が中断することすらなかった。
 それほどにまで打ち込んだ部活であるのに、打ち込んだスポーツにしても楽器にしても、卒業後も続ける者は希である。僕の甥が高校生で、日曜も正月もなく部活で野球していた。夏休みのある日、座敷で所在なくごろごろして、退屈て゛たまらないという。
 「野球が好きで高校を選んだんだろう。友達と野球したらどうだ」と言うと、
 「いやだよ、休みぐらいはやりたくない」どうして普段は熱中できるのかと問えば、
 「部活だから」という。好きではないらしい。好きではないのに、限度のない部活に引きずり込まれる。
 それをどうしてクラブというのか、クラブは倶楽部と書くのである。ともに楽しむ・・・。部活には不思議な集団中毒性がある、ハードな運動は脳内麻薬を分泌させもする。集団を離れれば冷めるのも早い。だが職場に部活を持ち越す者や、新たな部活的労働環境に取り込まれる者たちは悲惨である。過労死が待っている。
 歯を食いしばって続けることを賛美するのはやめて、継続は力などというまじないも捨てて、あっけらかんと休んだりやめたりする風潮を作りたい。南米を一年巡って来た池川君が、部活中毒から脱したのは大学を卒業してからのことだ。彼はその夏初めて、夏がさわやかな季節であることに気付いたという。中学高校の6 年間、彼らが最も輝いていた時期、何のための四季かと思う。

・・・見てくれの主体性が奴隷根性
  自ら主体的に抑圧構造へ従属化する、こうした現象を「主体化=隷属化(サブジェクション)」と呼ぶ。

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