「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言したのも宮沢である。
マスコミが相手だと、東大卒それも法学部卒でないと口もきかなかった。だからマスコミ各社も「宮澤番」には東大法卒を充てざるを得なかった。マスコミ各社政治部の劣化と堕落はここに始まったのかもしれない。大森実も筑紫哲也も石橋湛山も東大ではない。
だが学歴、家柄にこだわるのは宮沢ばかりではない。「底辺」校の着任式ですら、新卒教員が名門校出身と紹介されると生徒たちはどよめくのである。しかし授業で忽ち化けの皮が剥がされるのは早い。にもかかわらず、ことあるたびに、学歴、血筋に耳が反応する。これが日本中のあらゆる階層で裏返って「底辺校」への視線を形成することになる。
シュードラがバラモンに、来世の幸福を願ってなけなしの金を「喜捨」する光景を思わせる。金を受け取る側がふんぞり返り、差し出す側が恐れ入っているのである。
底辺校というのは単に偏差値ランキングが低いだけではない、それなら底辺と言わなくても成績や学力の問題を言えばいい。そもそも底辺校という言葉は生まれなかったはず。そこには、普通の学校では考えられない光景がある。例えば茶髪の生徒を校門で追い返すばかりか、昇降口の水道で染色剤を強制的に洗い流す。授業に集中しない生徒に「殺すぞ」と脅す。定期試験の最中に服装、ピアス・頭髪を名標を持ってチェックして生徒の気分を害す。些細なことで殴る、説教して授業に行かせない。いくら寒くてもセーターも手袋もマフラーも認めない。生徒の気分も所作も言葉も荒れないわけがない。
こうした光景が、複合して「底辺校」の烙印は押される。
ドゥルーズは優れた教師とは、「私のようにやりなさい」ではなく「私と一緒にやろう」という者だと言っている。
教師が生徒に「私と一緒にやろう」ということが、底辺校ではめったにない。よくて「私のようにやりなさい」である。たいていは「私の命ずるようにやりなさい」である。更に進んで「なぜ私の命じたようにやれないのか」という叱責となる。だから体罰が生じる。
そこには「君たちと私は、同じではない」という拒絶の言説が言外に含まれている。宮沢喜一が東大法学部出身記者以外とは口もきかなかったのと同じ構図がある。自分の出身校や前任校のトレーナナーを着続けるのも、生徒には不格好な制服を強要するのも、「君たちと私は、同じではない」を視覚化したものである。指示・命令・説教が多いのは「立場が違う」という意識がなせる業である。「名門校」にいたときや転勤すれば「私と一緒にやろう」と言える、言いたいのである。
底辺校の現実を緩和できるのは、今の日本では「高校三原則」に戻ることぐらいだが、現実は逆向きに疾走している。
高校三原則が維持された京都で、最初に問題にされたのは公立の受験校がないのは京都府だけだという言いがかりであった。特定の高校に東大合格者が集中しないが、どこからでも合格するという反論に耳を貸さないのである。僕は、人は平等や公平に耐えられないのかとため息が出た。しかしこれは平等に耐えられないのではなく、平等が未来に向けて徹底しないためだと思いたい。行政の平等が横並びの押し付けに終わっているのだ。図表は、その横並びさえ横着にサボっていることを、あからさまに示している。
千葉県立布佐高校の鳥塚義和教諭の調査 |
1789年、フランス人権宣言が輝かしく掲げられた。しかし忽ち、例外がつくられる。女性・黒人・貧乏人・奴隷・・・、だが粘り強い啓蒙と闘いによって少しずつ平等が回復した。最後に残されたのか「子ども」であった。ナチの残虐非道を潜り抜けてようやく「子どもの権利条約」は成立した。同じように気の遠くなる年月や悲惨な事件を経て、高校生の平等な生活が実現するだろうか。
私立学校がかくも多い先進国はない。三原則が徹底できないのもそこに一つ難関があるからだ。お陰で塾と予備校はその繁栄で、文部行政を牛耳ってしまった。加計学園と森友学園の傲慢横暴はそれを象徴している。彼らにとって、公立の底辺校は、絶好の「飯のタネ」になってしまっている。北朝鮮の暴走が、アメリカ兵器産業や日本の戦争好きには欠かせないのに似ている。
私立学校が異常に増えたのは、強兵政策で軍事予算のために国立学校予算を後回しにしたためである、私鉄が多いのも同じ構図。学校で掃除が子どもに強制されたのも子どもを守る予算が軍艦に充てたからである。
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