あの烏にてもあるならば 君が往来を鳴く鳴くも
などか見ざらん かへすがへすも羨ましの鶏や げにや八声の鳥とこそ 名にも聞きしに明け過ぎて 今は八声も数過ぎぬ 空音か正音か 現なの鳥の心や
『閑吟集』
If I were a bird, I would fly to you.という言い回しを 仮定法過去という無味乾燥な文法用語とともに高校で教わったが、教養とは程遠い断片的なものでしかなかった。
しかし大和猿楽にあるこの歌なら、枕草子や世阿弥の『逢坂物狂』に連なる豊かな表現を知ることができる。
まずは英語の教師が大和猿楽にも通じ、古典の教師が仮定法過去を知ること。それが偏差値の呪縛から若者を解き放つ。そして教室から解放たれて、街に出ることにつながる。
『閑吟集』は、16世紀の室町期に編まれた小歌の歌謡集。世捨て人を自称する男が「ふじの遠望をたよりに庵をむすんで」昔を偲んだか。集合住宅の最上階にある僕の部屋からも、富士が見える。北斎の「赤富士」風に見える日もある、僕も既に世捨て人である。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」や「世の中は ちろりに過ぐる ちろりちろり」など、無常観漂う世界が、遠い過去の他人ごととは思えない。
ここで鳥とは、逢坂の関で夜が明けても鳴く鶏のことである。別れを悲しむ対象を持つことの、狂おしさ。
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