虐殺の現場を保存し、学ぶ者の主体性を喚起すること

ナチによる虐殺を伝えるためオラドゥール村はそのまま残された
 フランスの夏休みは7月始めから9月第一週までの2ヶ月、しかもフランスの学校には「部活」はない。宿題もない。両親のバカンスも5週間と長いが、職種によっていつどれだけとれるか一様ではない。だから、子どもと一緒に休みを取れない家族のために、様々な組織がプログラムを用意する。例えば小学校では、Centres de Loisirsが、運営される。余暇センター。開設時間は、およそ午前8時30分から午後6時30分。給食があり、バスに乗って森へピクニックに出かけたり、気球に乗ったり、プールで遊んだり。自治体もボランティア団体も、多様な活動を展開する。
  中には、ドイツやポーランドの強制収容時で一週間を過ごすブランもある。日本の広島修学旅行や沖縄修学旅行とは大いに趣が異なっている。人数で様々な作業や奉仕を通して、ひとり一人が歴史と対話することに重点をおく。以下に挙げる感想は、パリの隣、ブローニュ・ビヤンクール市のプログラムで、中学生と高校生が、アウシェビッツへ出かけた時のものである。『イル・サンジェルマンの散歩道』から引用。

レア 17歳
「記憶する義務を持続し、人は最悪のことをなし得るのだということを決して忘れないことが絶対に必要」
マチルド 16歳
「これが繰り返されるのを避けるために、僕たちは批判精神を発揮し、憎悪と暴力を見過ごしにしないようにしなければならない」
セリア 15歳
「私たちは現実を目の前にして、嫌悪、悲しみ、恐れを強く感じた。その意味で、この旅は私たちに信じがたいほどの恩恵を与えてくれた」
クリストフ 15歳
「昔の強制収容者の証言は、僕をより強くした」
イネス 14歳
「僕たちは、過去の過ちを学び、どの様な状況に置かれてもそれに距離をとり、記憶しなければならない」

 以下は、日本の中高生の平和作文コンテストでそれぞれ自治体や官庁の賞を取ったもの。

福島県大玉村 中3 W君
  実際、折り鶴を見ているともう戦争のような争い事は、なくなってほしいという思いが強くなりました。今、当たり前に生活できることに感謝しなければならないと思う気持ちになりました。・・・争いをなくすために、一人一人が人を思いやり国と国が仲良く平和になる日が来ればいいのにと願うばかりです。そして、被爆体験者の方々の経験を無駄にしないように・・・。
綾部市 中3  I君
 ・・・戦争、私は同じ人間として戦争は絶対におこしたくない。もう二度と悲しい戦いはしてほしくない。そして、世界平和を願いたい。同じ地球に生きている一人の人間として・・・。
大津市 中2  Y君
  ・・・たった一人では小さすぎる力でも,大勢の人間が一人一人努力すれば大きな力になるのだから,無駄な事など何もない。だから私はどんな些細な事でも人のために,人の役に立つ事をしていきたい。そしていつかは,人として本当に正しい道を選べる人間になりたい。

 フランスの少年たちが、自分たちの具体的な課題を見据えているのに対して、日本の少年たちは「願い」や「~したい」のレベルに止まっている。自分の国の平和まで、人間を超えた力や他者に依存しているのだ。日本の平和教育が、少年ひとり一人の決意や主体的選択に支えられていないからである。
 
  いくつか例を挙げて考えたい。


 1944年6月10日土曜日の朝、フランス中部のオラドゥー
ル・シュル・グラヌ村にナチス親衛隊が突然現れ、「武器や弾薬を調査する」と村民に通告。男性は数カ所の納屋に、女性と子どもたちは教会に集められた。親衛隊は先ず、足を狙って一斉に射撃、逃げ出せないように。次いで納屋と教会に火が放たれ、逃げ出す者には機関銃が向けられた。村の建物328戸が全焼。人口の約99%である642人が死亡、生き残ったのは僅か26人。この事件に関与した親衛隊関係者のうち裁判を受けたものは、すべて釈放されている。攻撃命令を下した指揮官ハインツ・ラマーディングは戦後企業家として成功、一度も起訴されることなく1971年に死去した。
  ド・ゴールは、ナチス占領の実態を後世に伝えるため、オラドゥール村を再建せず遺構として残すことを決定。1999年には、オラドゥール村における虐殺を伝えるCentre de la mémoireが開設された。
 
  ヒットラーは政権奪取と同時にギロチン15台を作らせ、その1台がベルリン西郊プレッツェンゼー処刑場に置かれた。ナチスが政権下の12年間、この部屋で2500人の市民の命が奪われた。床には流れた血の色が今もとれずに残っている。1945年4月、ソビエト軍がベルリンに入り市街戦の銃声が響くなかでも処刑はまだ続いていた。処刑場はプレッツェンゼー記念館として残されている。
 プレッツェンゼー処刑場については、小田実の言葉が残っている。

 「一番胸に響いてくるのは、ここが普通のドイツ市民が殺されたところだということです。外国の放送を聴いただけで、あるいはヒットラーの悪口を言っただけで、ちょっと冗談をささやいただけで、もちろん抵抗すれば、抵抗した市民たちが、すべてがここに連れて来られて殺された。
・・・一番残忍な方法で殺すために、肉屋の牛肉を掛ける吊り輪のようなものに引っ掛けて殺すとか、あるいはギロチンとか、まだ血の跡が床に染み付いて残っているぐらいですね、一日に大変な数を殺す、そういうことを繰り返していくわけです、私がここで一番恐るべき光景の一つとみたのは、もちろんギロチンとか、その写真とか、あるいは吊り輪の実物とかですが、それともう一つはただの紙切れなんです、紙切れなんですね、何の紙切れかと言いますと死刑された人に対する請求書なんですね、請求書、死刑手数料です、それに家族に対して送りつけるんです、死刑された人たちの請求書、いろんな費用がかかったら払えというのです、家族が拒否すると今度はもちろん彼らがここに連れてこられてまた殺される、それで泣く泣く彼らは払ったのに違いないのです、このは非常に恐るべき紙切れと私はここで見たのです・・・そのような残酷な独裁政治のなかで人々は生きていたのです、そして処刑されますと、判決書に死に処す、ドイツ国民の名においておまえを死に処すという判決文も掲示され、死刑にした場合には個人の名前を書いたものをいろいろな所に掲示する・・・そういうことなんです。
 私はここに来ると、非常に粛然とした気持ちにもちろんなるのですけれど、ただその中で、すごい独裁政治の中で闘って死んだ人がいるということは・・・私にとって・・・非常に・・・
感動的なんです・・・私は、まあ、とにかくここに時々来て、自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、ここに来ます・・・というのは、これを見てますと、この光景を見てますとですね、わたしは逆に生きる勇気が出てくるのですね・・・こうやって・・・すごい独裁政治の中で・・・・それでも闘って死んだ人がいる・・・闘って死んだ人・・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・
 その意味で私はここによく来たのです・・・・いろんな残虐の跡をたどりながらここに来て、そしてこの残虐の極致である場所に来たときに・・・私はかえってこのような残忍な光景の中で・・・しかし闘って死んだ人がいた、十分に生きた人がいた、ということを私は知るのです・・・そして、私はたいへん勇気を得た気持ちになるのです・・・私はそこで、自分の一番大切な場所として、ベルリン滞在のあいだは時々ここに来ました   「わが心の旅、小田実、ベルリン:生と死の堆積」(1993年、NHK制作)小田実自身の語り。
 「・・・」が多いのは、そのたびに小田実の胸が詰まったからである。小田実もここで「自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・」と言っている。

 ベルリンの路上や建物の壁には、抵抗運動でナチスに虐殺された人々を忘れないための金属板が埋め込まれている。ベルリンだけではない、欧州の至る所に。パリでは、抵抗運動で銃殺された少年の名が、地下鉄の駅名となっている。←クリック

  例えば、小林多喜二が拷問され殺された取調室が残されて公開させることが考えられるだろうか。旧築地署に近い地下鉄駅やバス停の名称に多喜二が付けられる可能性があるか。関東大震災の朝鮮人虐殺の現場に、ひとり一人の名前や虐殺の日時を書いた金属板を貼り付ける運動が可能か。
 広島長崎の原爆や、沖縄の戦火や、無差別爆撃で命を落とした人々の名前や死亡に至った経緯を明記したプレートを町中に埋め込もう。
 戦争の歴史は、固有名詞とともに記憶される必要がある。固有名詞を通して初めて過去の惨劇は、ひとり一人の中に深い対話として蘇るのである。


 体罰死の現場である学校施設にも、過労死の現場である職場にも、個人名と経緯を記した金属板を埋め込まねばならない。「忘れない」でと願うのではなく、忘れさせない決意を形にすることが必要なのだ。

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