Active Learning 疑

   横文字のまま日本語化できない概念は定着しないし成功しないという見解がある。例えばホームルーム、なんだかわからないまま半世紀をとっくに過ぎている。曖昧且つ英語としても意味不明。ロングタイムという地方もある、余計わからない。生徒も教員もそれを概念化できない。
 「自治」と名付ければ、途端に革命的想像を働かせることが出来る。ホームルームで服装検査をやろうとすれば、拒否したくなる。君が代の練習も。それを通して君が代・日の丸の本質も見えてくる。ワークシートも良くない。
 最近ではシチズンシップ教育。エビデンスやアセスメントもなぜ横文字のままなのか。日本語化して大衆が概念を深めることを恐れているか、横文字のまま恐れ入らせるつもりか。
 自分自身の言葉で語れない集団を、隷属集団と言う。自集団の在り方を外部に左右されている。対するのは、主体-集団。自己の在り方を自ら規定して、自らの言葉を持っている。我々は相応しい日本語を見つけ、自らの言葉として語らねばならない。
 日本の職場で横文字のまま、ヤブガラシのように全国の職場に蔓延り、労働者意識を解体したのがQC。労働者の意識に定着しないからこそ、経営側の都合のいいように使われたのである。
 QCサークルは、同じ職場内で品質管理活動を「自発的」に小グループで行う活動だった。品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、職場の管理、改善を継続的に全員参加で行った。
 QC運動が 基本理念として掲げていたのは、①人間の能力を発揮し、無限の可能性を引き出すこと。/②人間性を尊重して、生きがいのある明るい職場をつくること。/③企業の体質改善・発展に寄与すること。の三点、どれもなんとなく良さそうで、曖昧で何でも含まれそうなところがミソである。
 TQCは  QCが主に工場などの製造部門の品質管理手法であったが、これを製造部門以外(設計部門、購買部門、営業部門、マーケティング部門、アフターサービス部門・・・)にまで適用し、体系化した。
 時間外で全員参加であるにも関わらず残業には含まれず、「主体性」が上から押し付けらる事態が多発した。毎回一件はとにかく提案する、提案したことは実行する。おかげで忽ち労働強化は実現、職場から人が消えた。基本理念が聞いてあきれる。株主と経営者にとって「生きがいのある明るい職場」となった。具体的な中身のない事柄に、意識と労力を傾けさせ、労働者と資本という関係から目を逸らせて階級意識を奪取した。労組組織率やメーデーの規模は小さくなるばかり。
 学校にも既に企業的手法は入り込んでいるが、それに「主体性」「自主性」「対話的で深い」を付け加えるのが、Active Learningである。Active Learningの効用には、当たり前らしきが羅列してあるが、中身はない。
 教育勅語の「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和)シ、朋友相信ジ、恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ」だけを取り上げて、どこが悪いと居直るのに似ている。「一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」にあたる部分はないのがミソ。だが、そこは反動化が進む教科書、右傾化著しい教育委員・議員の介入の方が効果的と
  Active Learningも評価と格付けから自由なら、ヴィゴツキーの最近接領域概念が生きるかもしれない。それは全生分教室の教育について、拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』で分析を試みた。他者の手助けが、ある場合には存在自体が無意識の手助けとなることもある。
 しかし仲間の助け合いの中に、忖度的競い合いと評価を埋め込み、「ボロ班」という仕掛けを発明するこの国で、最近接領域概念が生きるとは思えない。全生分教室が成功したのは、皮肉にも隔離され評価格付けが意味をなさなかったからである。予想されるのはActive Learningサークルが分掌・学年・教科ごとに「自主」的に組織されることである。
 そこで「品質管理」されるのは 生徒と教師。発言回数や内容は記録される。それを明るく競うように、へとへとになるまで行う。しかし予想されるActive Learningサークルは当然主体的自主的に作られるから業務外である。従って教員の残業問題は一気に片付く。文化祭や修学旅行の準備もActive Learning、採点も試験問題もすべてがActive Learningに流し込まれる。その成果はあらかじめ作業化された手順で点数化される。
 点数化された作業は評価管理することによって、学校を企業化する。そして格付けする。その専門家として企業から人間が送り込まれ学校の隅々までALサークルが張り巡らされると僕は睨んでいる。現代風の大政翼賛組織の末端となる。だから英語のままなのだ。中身を曖昧なままいくらでも膨張させることが出来る。
 明るい装いの滝山コミューンが電子端末装備で日本中に出現する。もともと全生研と文部省は不思議に響き合うものがあった。AL甲子園も組織されるかもしれない。万が一高校生が学校の思惑を超えてActiveになって、ごっこではない政治活動に目覚めないように予め線路を引いておくのである。

 根本的なことが抜け落ちるだろう。それは誰にとって、何に向かってActive なのかということである。アランの指摘するように、思索は深く静かで暗い過程である。青少年の内面の燃え立つような激しい精神の営みであっても、外から Active であることを見ることは決してできない。高校生はそういう時期にあり、三年間丸ごとその渦中にあることだって少なくないのだ。アインシュタインや湯川秀樹の学校時代は Active だっただろうか。鶴見俊輔はどうだったか、レオナルド・ダ・ヴィンチもラッセルも・・・いずれも孤独や自然の中で自己と向き合う少年期であつた。深く考えることが好きな少年にとってActive Learningの軽薄な雰囲気は堪らないに違いない。
 勿論深い思索が適切な表現行動を促すこともあるが、軽薄で情緒的に雷同する者のほうが目立ちやすく素早い。だから歴史ではいつも、深く思考する者は軽薄な勢力に出遅れてしまう。
 だから、官僚とそれに迎合する現場教員から生まれた浅知恵は、格差を拡大して憎悪を煽り、まともな者たちがようやく行動するころには荒野原になっているかもしれない。
 南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦はでっち上げと騒ぐのも、日本民族としての「主体的で深い学び」と言い出しかねない。

  ヤブガラシは蔓性の雑草。畑や花壇はもちろん薮まで枯らしてしまう勢いがあるからその名がついた。Active Learningは日本の学校をヤブガラシのように席巻して何も残さない。またの名を貧乏葛という。

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