原発事故後避難を続ける生徒が通う中学校で、先月1年生の担任の男性教諭が、生徒に対して「飛び降りろ」と発言していた。学校側は担任交代を決め、保護者への説明会で謝罪。問題発言をしたのは、事故後生徒たちが避難しているいわき市に仮設校舎のある双葉町立双葉中学校の50代の男性教諭。NHKの取材に応じた複数の生徒と保護者によりますと、教諭はこの春の異動で生徒5人の1年生の担任になった。先月下旬、授業中に男子生徒が自分の意見を発表できない様子を見て「飛び降りろ」などと発言した。また、この生徒の声が小さいことへの指導だと、腹を強く押したり首を絞めたりする行為を繰り返したという。
今月上旬複数の保護者から抗議を受けた学校側が聞き取り調査を行った結果、教諭は「飛び降りろ」と発言したことは認めましたが、腹を押したり首を絞めたりする行為はしていないと答えたらしい。学校は保護者と生徒に対し「不適切な言動があった」などと伝えた。
学校側は2学期から担任の交代を決め、保護者への説明会を開き謝罪。
生徒や保護者によれば、教諭が「飛び降りろ」と発言したのは先月下旬で、これは、先月18日に埼玉県所沢市の小学校の40代の男性教諭が4年生の児童に対し「窓から飛び降りなさい」などと発言したことが報道された直後だった。
まさかこんなに早く、想定通りの事件が起こるとは思わなかった。「Active Learning疑 1 」で僕は
「 思索は深く静かで暗い過程である。青少年の内面の燃え立つような激しい精神の営みであっても、外から Active であることを見ることは決してできない。高校生はそういう時期にあり、三年間丸ごとその渦中にあることだって少なくないのだ。アインシュタインや湯川秀樹の青少年時代は Active だっただろうか。鶴見俊輔はどうだったか、レオナルド・ダ・ヴィンチもラッセルも・・・いずれも孤独や自然の中で自己と向き合う少年期であつた。深く考えることが好きな少年にとってActive Learningの軽薄な雰囲気は堪らないに違いない」と書いた。
高校生だけではない。中学生はもっと繊細かもしれない。自分の中で渦巻いているもやもやのどれが意見なのかさえわからない。解っても「意見」を言いたくない。自分の「意見」に立ち入られたくもない。または長く深い思索の微妙な途上にあって難儀しているときに、軽々しく「意見」をと催促する無神経さに絶望しているかもしれないのだ。
意見をいうのは自由な権利である。同じように意見を言わない自由も保証されなければならない。Active Learningが教科で位置付けられれば、「意見を言う」が標準作業化されねばならない。何故なら「意見を言う」ことが評価の対象となるからである。意見を言うことは、いいことだという思い込みがある。いいことは強制してでも達成させなければならないという倒錯が、かつて管理主義的言説が席巻した頃あった。
いいことは、私的なわがままを邪魔しないことによってのみ実現されるのではないか。そうでなければ「主体的」が泣く。
追記 「ものごとは心でしか見ることができない。大切なことは目には見えない」
中学生が「星の王子さま」のこのセリフをすぐ暗記して、大学を卒業しても口ずさむのは何故なのか。僕らはそれを知らなければならない。
小さな星の小さな庭のわがままなバラに水をやり続けて「なじみ」になる、それは我々の日々の授業のことではないのか。
バラのわがままに腹をたてて旅に出るのを「自己」と言い、わがままを聞き水をやることを通して「なじみ」になるのを「他己」という。
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