激痛が生む妄想の世界

狩野亨吉は危険思想家を自認した

  帯状疱疹の地獄の痛みが和らぐとともに、奇妙なことに気付いた。 痛みでのたうち回っていた時と痛みが和らいでからでは、ものの見え方がまるで違う。
 うちのベランダから、科学館のプラネタリウムの大きなドームが見える。やや距離を置いて、ドーム沿いにドームと同じ位の高さの針葉樹が一列に広がっている。
  その枝と葉が、僕にはドームの曲面に書かれた前衛書道の筆跡に見えたのである。こんなに下手な書を目立つ場所に書いたセンスのなさに呆れた。数ヶ月もの長い間、そう信じ込んでいた。それがある日、単なる立木の枝葉に過ぎないと気付いた時、僕の痛みは消えかかっていた。

 夜中、壁や天井の模様が浮き上がって、痛みの象徴に見えていた時期もあった。大型の万力で締め付けられるような痛みは、途方も無い罰を受けているからに違いない。罰なら、それは如何なる罪に対応してるのか、妄想が際限なく押し寄せる

 それが単なる模様であると自分に言い聞かせるのに途方もなく消耗した。鎮痛薬(リリカ錠)の副作用による妄想は恐るべきものであった。
 再び運転し始めて、更に気付いたことがある。視野が広がり遠くまで見通せるようになったことだ。たぶん見え方だけではなく、記憶や思考力も聴覚や触覚も歪んでいた筈。
 些細なことで激高したこともある、有る筈のないものを感じ、有る筈のものを認知出来ないでいたからだ。

 痛みや不安は、人の認識過程を大きく左右する。不幸や不安が大きければ、世界観は動揺し崩壊もする。言葉や表情に現れるだろう。能能力に致命的傷を与えもする。ノーベル賞受賞の数学者、ジョン・ナッシュが悩まされた妄想に興味がある。彼はある不運な事件で学者としてのポストを失うが、それと共に強い妄想に取り憑かれる。その妄想に登場する人物は声や姿だけではなく、触覚まで彼にもたらした。←クリック
 個人が独占する豊かさも、それが消滅する恐怖に苛まれる。
   僕は拷問に堪えかねて、信念を捨て世界観を変えた人たちが味わったものの正体を垣間見た気がした。苦しければ世界が歪む。セクトの査問や企業のハラスメントが、人の世界観を歪め命さえ奪う仕組みを病床で味わった。 

 人類は健全な肉体と感覚を前提に、複雑怪奇な世界を認識している。だが一人一人の肉体や感覚は完全ではない。多かれ少なかれどこかに欠陥を抱える。野球を得意とする者は、詩や絵が分からない。科学に精通すれば、ピアノを嗜む暇はない。それを補い合うから、認識の歪みや欠落を補正することが出来る。社会を健全に保ち発展させるために、人間は連帯し合うよう運命づけられている。                                    
 金のある同士、家柄のいい者同士、偏差値の高い同士が結びあっても、「欠陥」は互いに増幅される。世襲議員が、悉く劣化し急速に腐敗堕落するように。芸能界や経済界も例外ではない。


 1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。

今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」    『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
 多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増す。
 逆にファシストやカルト集団と彼らに忖度する人間だらけの世間ならば、言葉の明晰性は消えてしまう。
 それ故志賀直哉は、戦後発足したばかりの『世界』の編集に敢えて中野重治や宮本百合子を入れる提案をしている。
 戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。
 多様性を内包しない結びつきは、動的平衡を保てない。動的平衡の欠けた芸術はあり得ない。

 夏目金之助が博士制度や文芸院に口を極めて反対した所以である。
 安藤昌益の研究者・狩野亨吉は
 「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない
と皇太子の教育掛を固辞し、帝大総長の地位さえ退け、東京大塚の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げた。地位も身分も存在の動的平衡を壊すからである。
 
 学校が選抜に固執すれば、少年たちの生活世界から多様性は消える。教育のそして社会の健全性も発展性も失う。やがて地域は停滞腐敗する。

 長い激痛と妄想の半年余り、恰も僅か一畳余りの独房で絶えざる拷問にさらされたかのようであった。極めつきの柔らかな肌着さえ、針を打ち付けたものに感じられたほど。 何度も絶望した。痛みが無くなるならと自死も考えた。それを止めたのは、甲斐甲斐しく日常を構成し続ける妻の笑顔である。

 コロナ禍の激痛は社会の見え方を歪ませている。検査と治療の徹底ではなく、Go to travel キャンペーンによる感染の拡大に向かわせてしまった。今年の出生数も若者の結婚数も激減する(8月21日、一億総活躍担当大臣は、新型コロナウイルスの感染拡大で、結婚や妊娠・出産に不安を抱く人の増加が、出生数や婚姻数の減少につながっていることを認めた)。最悪の選択に固執するの愚を、この政府は又も選んでいる。
 

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