漱石の博士号嫌いと「自」由

漱石にとっての平凡な自由
 漱石は「他由」が我慢ならない。1911年2月20日、夏目金之助宛に文学博士号を授与する学位記を文部省通達。 2月21日、漱石は文部省の福原鐐二郎専門学務局長に宛て次のように伝えた。
 「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。敬具

  漱石は辞退の手紙とともに、学位記を返送。面目を潰された文部省からは、「発令済みでもあり、大臣の命のため辞退をすることは許されない」と学位記が再び届く。漱石は、再度辞退の手紙を出す。4月19日、文部省より「学位記は当局で保管する。辞退されようともすでに発令されているので貴下を文学博士とする」と通知。

   漱石は自己の尊厳のために憤慨したのではない。

  5月18日から20日にわたって『東京朝日新聞』に漱石は『文芸委員は何をするか』を連載している。

 「政府が官選文芸委員の名を発表するの日は近きにありと伝えられている。・・・政府はある意味において・・・少くとも国家を代表するかの如き顔をして万事を振舞うに足る位の権力家である。今政府の新設せんとする文芸院は、この点においてまさしく国家的機関である。従って文芸院の内容を構成する委員らは、普通文士の格を離れて、突然国家を代表すべき文芸家とならなければならない。しかも自家に固有なる作物と評論と見識とのもたらした価値によって、国家を代表するのではない。実行上の権力において自己より遥に偉大なる政府というものを背景に控えた御蔭で、忽ち魚が竜となるのである。自みずから任ずる文芸家及び文学者諸君に取っては、定めて大いなる苦痛であろうと思われる。・・・政府が国家的事業の一端として、保護奨励を文芸の上に与えんとするのは、文明の当局者として固より当然の考えである。けれども一文芸院を設けて優にその目的が達せられるように思うならば、あたかも果樹の栽培者が、肝心の土壌を問題外に閑却しながら、自分の気に入った枝だけに袋を被せて大事を懸ける小刀細工と一般である。文芸の発達は、その発達の対象として、文芸を歓迎し得る程度の社会の存在を仮定しなければならないのは無論の事で、その程度の社会を造り出す事が、即ち文芸を保護奨励しようという政府の第一目的でなければならない事もまた知れ切った話である。そうしてそれは根の深い国民教育の結果として、始めて一般世間の表面に浮遊して来るより外に途みちのないものである。・・・余は政府が文芸保護の最急政策として、何故にまず学校教育の遠き源から手を下さなかったかを怪むのである。
・・・我々は自から相応に鑑賞力のある文士と自任して、常住他の作物に対して、自己の正当と信ずる評価を公けにして憚らないのみか、芸術上において相互発展進歩の余地はこれより外にないとまで考えている。けれども我々の批判はあくまでも我々一家の批判である。もしそれが一家の批判を超越する場合には、批判その物の性質として普遍ならざるべからざる権威を内に具えているがためで、いわば相手と熟議の結果から得た自然の勢力に過ぎない。
 ・・・一家の批判をもって任ずべき文芸家もしくは文学家が、国家を代表する政府の威信の下に、突如として国家を代表する文芸家と化するの結果として、天下をして彼らの批判こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱かしむるのは、その起因する所が文芸その物と何らの交渉なき政府の威力にもとずくだけに、なおさらの悪影響を一般社会――ことに文芸に志す青年――に与うるものである。これを文芸の堕落というのは通じる。保護というに至ってはその意味を知るに苦しまざるを得ない
   
 漱石が嫌っていたのは、自由な批判や評論に権力が介入することであった。そんなことより「まず学校教育の遠き源」に力を尽くすべきと、至極常識を言っている。まさしく危険思想としての個人主義
である。
 同じ論理で博士制度についても
 「一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。・・・博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至るとともに、選に洩もれたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せんことを余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのあることすらも快よく思っておらぬ。明治44年4月15日『東京朝日新聞』(博士問題の成行)
 こうした精神は、夏目漱石に限ったものでは無い。
 慶応元年生まれの狩野亨吉は、旧制高校校長や帝大総長の地位を未練なく捨てている。←クリック
 鹿児島の片田舎の明治生まれの祖母たちも、海軍砲兵将校であった祖父の苦い経験もあって、共同体を超えた力が日常に介入することに神経質であった。高校の何たるかも知らなかった僕に中学生の従兄弟が、高校の次には大学があってトーダイが一番だぞとけしかけたことがある。帰宅するや、祖母たちを喜ばせようと、「僕トーダイに入るよ」と言うと祖母と大叔母たちは戸惑い怒ったように声を揃えて、そんなものに「ならんでんよか」と言った。ことあるごとに「今のままでいい」と言い、東大や士官学校を出てしまった近隣の知り合いたちがどんな末路を辿ったかを聞かせるのだった。
 父も博士号を頑として拒否し続けた。子どもを何で尊ぶべきか、自分の仕事は何で評価されるべきか強い価値意識が自分たちの中にあって、外部の権威や権力に一元的に従属すべきではないと考えていたのだ思う。
 子どもにとって「僕が大事にされるのは成績や記録のせいではない、ここにいること自体なのだ」と確信できることほど大切なことはない。それが平凡な自由である。

  我々が教師として生徒に向かう会うとき、偏差値や成績や合格実績や大会実績を通していないか。我々が自らを生徒や保護者に紹介するとき、教委や文科省による身分や資格を、色眼鏡として利用していないか。

 主任教諭とか主幹とか統括校長と名刺に書きたくなった時、生徒も授業も遠くに消えてゆく。

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