嘗て米上院が米海軍に対して、武力介入の報告を求めたことがある。ニカラグアやアンゴラなどへのArmed interventionに混じって、RyukyuとJapanも報告されている。
琉球では上陸したペリー艦隊水夫が女性に強姦暴行、仏壇の酒や食べ物を盗み、「位牌」を持ちかえり、また恩納村で酒に酔った米兵が住民に向け銃を発砲し、12歳の少年を含む三名の村人を負傷させている。
1854年6月12日には、那覇に上陸した水夫たちが酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦した水夫は住民に追われ海に落ちて溺死。
最高責任者ペリーは、謝罪しないどころか逆に水夫が死んだことを問題にし、犯人の究明を求め、強硬な姿勢で「裁判」を開くよう琉球側に要求。7月7日、ぺリー同席のもとで裁判が行われ、投石した住民が八重山に終身流刑となっている。このリュウキュウへのArmed interventionでペリーは捕鯨船への薪水補給や通商を強要する以外、琉球占拠も画策している。つまり「武力介入=Armed intervention」は「砲艦外交=gunboat diplomacy」すなわち「侵略」と一体であった。
『嘉永明治年間録』にはペリー艦隊水兵が横須賀市久里浜近郊で起こした暴行事件の顛末が記されている。
「この度やって来た異国船。六月八日、本牧沖に滞船中は小舟にて諸方を遊覧し、此の時久里浜に住む百姓市之助(年齢約六十歳)と言う者がいて、娘(二十歳)が一人いた。市之助は畑に出て農作業の為家を留守にしていた。娘が水を汲みに出ていると、夷人たちが娘を見つけ、小舟にて漕ぎ寄せてきて、八人が上陸し、市之助宅に侵入し娘を強姦した。物音を聞き市之助が家に戻ると、その様子を見て、天秤棒にて夷人三人を打ち倒し、その他の夷人は船へ逃げ帰った。娘は気絶していて、市之助は娘を介抱し、何とか息が戻った。此の隙に三人の夷人たちも逃げ出した。市之助は久里浜の役所に訴え出たが、役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し、三百疋を取らせて事を済ました」(原文は漢文)
琉球で罰を逃れた水兵たちは増長、久里浜でも同じ事件を起こしている事が分かる。注目すべきは「役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し」た事だ。原爆投下を非難するどころか、占領軍に先んじて原爆被害実態を報道管制・隠蔽した日本軍部を思わざるを得ない。
ペリーは忽ちのうちに懲らしめるべき「外患」から開港の恩人と持ち上げられてしまう。悪が善に転化する、正常な精神を失っている。強姦された者が、憎むべき強姦犯を「彼は私を愛していた」と妄想するに似ている。
おかげで各地にぺりー提督を讃える記念碑が建てられる始末。原爆投下や東京大空襲などの司令官ルメイ(日本本土爆撃が人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術爆撃を考案し実行した。終戦の9月20日に彼は記者会見で「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている)に、日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っているのだ。
ペリー砲艦外交=gunboat diplomacy以後、日本の権力は強きには屈伏すべしとの価値観に囚われてしまう。安手の鹿鳴館で似合わぬ洋装で下手な踊りにうつつをぬかす有様を錦絵にしたり出来るのもそのためだ。その裏には強者は常に正しいとする世界観が見える。そうでなければ唯一の被爆国が、原爆投下国の核の傘の元にある事の理屈が付かない。
強者=正義とする世界観は、朝鮮や中国更に「大東亜共栄圏」政策に反映する。開国した日本は正義であり、鎖国を続ける朝鮮は正義の日本敬意を払って従うべきであり、列強に分割されつつある中国に正義はあり得ないとの筋書きになる。かくして帝国日本は「現人神」に守られ「大東亜共栄圏」を形成、正義を世界に示さねばならない羽目に。ここまで妄想が募ると、昨日までの先進正義・米英は一瞬にして反転「鬼畜」と化す。神国官製の妄想にイライラしていた大衆が開戦の報道に快哉を叫ぶのは妄想の再構成=反転強化に過ぎない。反転した虚像は原爆による敗戦で再び反転した。
もし日本が自立した誇りある国家であれば、力に屈した自己を恥じ、鎖国政策を維持する李氏朝鮮にこそ敬意を払う。孫文や魯迅が期待した日本像こそ、世界史的実像であった事を知るべきだった。
それにしても米国は「武力介入=Armed intervention」を21世紀に入っても止める気配がない。貧しい小国ベトナムに徹底的に敗北した一時期は温和しかった。「世界の警察」の妄想から覚めたかにみえた。しかし「我々はベトナムに負けたのではない。国内の反戦運動に押されたに過ぎない」と言い始める。妄想の修正し始める。
英国から追われるようにして新天地を求めたキリスト教徒たちが、メイフラワー号でプリマスに上陸して以来、彼らは先住インディオ虐殺を神の恩寵の証とする妄想なしには、合衆国建国を正当化出来ないからだ。「神に守られた正義の全能米国」と「万世一系の神国日本」は、幼児な妄想という点で共通して互いに依存している。両国とも常に絶対悪として第三項を仕立てねばならなくなる。
日本各地に乱立するペリー提督像、ペリーを『讃える』記念碑を見る度僕は胸くそが悪くなる。
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