1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅱ

 承前  花森安治は兵隊だった頃を思い出す。彼は1911年生まれ、徴兵で中国東北部の部隊に従軍した。


   どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。 

   目が、へんに光っているくせに、それでいて、どこか遠くのほうを見ているような、早くいえば、呆けたような表情になる。

 ひとの顔が、みんなそう見えるのだから、もちろん、こちらなど、とっくにそんな顔つきになっていたのだろう。

 そして、考えていることといったら、あとどれくらい歩いたら、水のある所に行きつくだろうか、などといったことではなくて、それでも、だれか水筒に水をこっそり残していないだろうかと、前後左右の兵隊の腰のあたりで、歩くたびに揺れる水筒の音に、神経をすりへらしているのだ。

 ことわっておくが、こんなことを書くのは、このごろのご連中、みなさまおなじような顔つきをしているのは、心のなかで、よほどのどが渇いているのだろう、などと歯の浮くようなことを言うためではないのである。

 なにかといえば、欲求不満だの挫折感だの劣等意識だの体制だの反体制だのとはやしていて、それで日が暮れるような、そんな甘っちょろいものではない筈だ。

 第一、おなじバカみたいな表情にしても、汗が噴いて乾いて塩が縞のように白くこびりついた兵隊のぎりぎりのアホウ面と、ズボンのポケットに小銭をじゃらじゃら鳴らしている、男性化粧料やけしたアホウ面とが、いっしょになろうはずがなかろうじゃないか。

 そんなことではなくて、あのどうにもならないほどのどが渇いているときでもみんなが、おなじ兵隊服でなく、てんでばらばらのものを着ていたら、それでもやはり、みんなおんなじょうな顔つきになっただろうか、それをふっと考えたからである。

 というのは、そんな生命ぎりぎりのときでなくても、兵隊の顔は、どうにも見わけのつかないものなのだ。

 いつか、行進している部隊の中から、自分の中隊を探そうとして、知った顔を見つけるのに、ひどく苦労したおぼえがある。

 そういうつもりで、一度、このごろの連中の着ているものを、町角に立って、眺めてみたまえ。

 まるで、だれかに命令されたように、みんながみんな、おなじような服を着ている。それが、どぶねずみ色なのだ。

 だいたい、男の背広なんてものは、やれコンチがどうの、アシタがどうのといってみたって、たかだか、エリの巾が何ミリどうなって、胴のダーツが何ミリどうとったなんてことで、ボタンの数がふえたといっても、まさか十も二十もつくわけじゃなし、ズボンをスラックスといいかえてみても、ガニマタが、すらっとするわけでもなし、洋服屋のまわし者がさわぐほどには、大して変りはえのするものではない。女の子の流行の千変万化ぶりにくらべたら、男の背広なんて、いつだって、どこだって、だれが着たって、大して変りのないものだ。

 形がすでに大して変りはないときているところへもってきて、色まで、そろいもそろって、どぶねずみ色なのだから、なんのことはない、これは、もはや一種の兵隊服である。

 それも、兵隊服のほうは、なにも好きこのんで着た奴は一人もいない。馬鹿野郎、服に体を合せるんだ、とどなられながら、どうにかこうにか、体のほうが服に合ってきたものだ。

 もちろん、あの兵隊服には、細部にわたって、なにからなにまで、きちんと規格があって、縫製はもちろん、着方まで、うるさくきめられていた。帯革をしめたとき、ビジョウのどの線が、服のどの線にそろわねばならないか、そのとき出来たシワほ、どこへ寄せなければならないか、そんなことまできめられていた。軍人の制服だから、仕方のないことだった。

 ところがこのごろの連中のどぶねずみ色の服が、やっぱりそれなのだ。

 なにも会社や役所できめたわけでもあるまいし、タダでくれたものでもあるまいに、兵隊服みたいに、ぴったり規格に合って、着方までそろっている。

 ワイシャツは白、ネクタイと靴下は、どぶねずみ色、靴は黒、ハンカチは白ときて、そのハンカチの折り方、胸ポケットからのぞかせる寸法(ミリ単位)、ネクタイの結び方から、カフスボタンののぞかせ方(おなじくミリ単位)、上着のボタンの外し方に至るまで、これがおなじときている。

 古い言葉でいえば、さしづめ、バッカじゃなかろうか、である。

 君、なにを着たっていいんだよ。

あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである。

  花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』

 どうだ、不気味だろう。「 あんまり、わかりきったこと」も憲法に書かねばならぬと言いながら、その実政権党が目指しているのがどんな世界なのかが。

 花森安治は、世界を震撼させた「大学闘争」の前年にこれを書いた。と言うことはここに書かれたどぶねずみ色の若者たちは、団塊の世代のだいぶ前に生まれている。つまり戦中派ではないが戦後派でもない。この微妙な世代のおかしな風俗に、花森安治は怒りを隠さない。

 彼らが国民国民学校に入る頃、教師は敗戦で呆然。昨日まで現人神のために命を捨てろと裏声で叫んでいた男が、教科書の墨塗に励むそんな時代。

 適格審査による教職追放もあったはず。 教職追放は、GHQのCIE(民間情報教育局)が担当した。CIEは、教職追放の方が公職追放より厳しいものになるべきと考えていた。全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、日本の戦争を肯定する者、積極的に戦争に加担した者、戦後の自由と民主主義を受け入れない者に、除籍を求めた(適格審査の記録はほんの一部しか残っていないが、審査は実に杜撰なものであった)。1946年5月、占領下の文部省は『教職員の除去、就職禁止及び復職の件』を発令。各都道府県に教員適格委員会を設置している。

 少年たちは何を考えただろうか。

 丸山真男は駅ホームの放送「危険ですから白線の内側にお下りください」に腹を立てた。判断する主体はあなたではないということを、政府に代わって数十年間睡眠学習のように聞かせ続けているからである。

 戦前の教育は少年の生活全てから、判断するする知性を奪い尽くした。

 つい昨日まで鬼畜と罵った米兵に一言一句に至るまで唯々諾々と従う。そんな教師を見て、少年たちが再び胸に刻んだのは今までのように「考えない」こと「判断しないこと」だった。そうでなれば「どぶねずみ色の若者たち」の奇態は説明が付かないではないか。


 『暮しの手帖』の魅力は、多種多様な取材対象と執筆陣にある。ノーベル賞受賞者も日雇い労働者も人間国宝も貧乏暇なしも同列に扱われる。この無鉄砲かつ勇敢な編集姿勢は、花森自身の旧制高校時代や「帝大新聞」編集部時代に形成されている。

 だから彼は一方で「どぶねずみ色の若者たち」とは対極の輝かしい青春を経験し、他方で軍馬以下の一兵卒=究極の溝鼠として戦場を彷徨った経験をもった。正真正銘の複眼的切れ味の良さはこうして生まれている。

 

  

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