たまにやるからいい |
志賀直哉は、小林多喜二を、
「北欧の文学がヨーロッパ文学を席捲したように、いまに北海道の文学が内地の文学を席捲してしまうのだ」と励ましている。実感だったのだと思う。だから、虐殺の報を受けた日の日記にも
「小林多喜二、二月二十日(世の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる」と書き、多喜二の母にも、
「御令息死去の赴き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考へアンタンたる気持になりました」と書き送っている。
それほど文学的には評価していたが、「小説が主人持ちである点好みません」と、政治や思想が混じると芸術が弱くなる旨批判の書簡も送っている。志賀直哉にとって小説は、思想を伝えるものではない、増して政治の手段ではない。思想の表現は別の効果のある方法によるべきであると考え、左翼思想も右翼思想も、思想という括りで斥けるところがあった。にもかかわらず、戦争末期、彼は特高の監視を笑い飛ばしながら「終戦工作」=政治活動に決然と乗り出したのである。←クリック
敗戦後も随想で、第二の東条英機にが現れるような事は絶対に防がなければならないと考えていた。戦犯としての東条の惨めな姿を大きな銅像にして残し、「その台座の浮彫りには空襲、焼跡、餓死者、追剥、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現わすべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東条英機の真実の姿を記憶すべきである」(「銅像」1946年『改造』復刊第一号)と述べている。
志賀直哉は天皇個人に責任があるとは思えないが、「天皇制には責任があると思う」と述べ、古い関係を捨て去ってしまうことは淋しいが、世界各国の君主制が次々に廃止されるの見ていると、「天皇制というものがいまはそういう頽齢に達したのだというようにも感ぜられる」とまで書いた。天皇制の責任と廃止を求めたのである。
新日本文学会の賛助会員になったのも、新しい民主主義的文学運動に対する期待を込めてのこと。しかし中野重治の「安倍さんの『さん』」という評論に抗議して退会。安倍能成は同心会の盟友である。戦後の困難な時代に敢えて文部大臣を引き受けた安倍能成の思いに迫ろうとせず、ひたすら政治的に罵る。天皇制について論じる限り同意出来ても、皇后が太っていることで、揶揄し、批判するやり方に不愉快を感じたのだった。これら点では、中野重治は妻の原泉からも「詩人らしさがない」と批判されている。志賀は、それを文学的でないと怒ったのである。教育基本法の成立に安倍能成は大きな役割を果たしているのである。
志賀直哉がわざわざ中野重治に手紙を書いて、新日本文学会を退会したのは大きな痛手でなかった筈がない。
僕は、『五勺の酒』は志賀直哉への中野重治自身の釈明が反映していると思う。思いが苦く綴られている。だから酔って書いたのである。日本の戦後文学を背負った上に党の中央委員でもあり国会議員でもあった頃、民主文学運動は「たまにやる」ものではなく、「生活が全面的にイデオロギー化」していた。文学運動自体までもが政治化していた。
中野重治にとって、志賀直哉を巡る思いでは慚愧に堪えぬ恥ずかしいことの限りであった。だから酔って書いたという体裁にしたのだ。しかしこの時、既に志賀直哉は他界していた。
国会議員としての中野重治は、用意周到な調査を背景に鋭い質問を繰り出し討論して、反対派さえも楽しみしたほどである。志賀直哉が学習院時代、内村鑑三に傾倒し鉱毒事件にも強い関心を抱いて谷中村に赴こうと父とはげしく対立したことや、日露戦争勃発当時の日記には、戦争批判の言葉がしきりに書かれていることを知らぬ筈はない。
小さな教育現場の「活動家」でさえ「生活が全面的に政治化」、日常から乖離して「スターリニスト」化する者は少なくない。職員会議や職場会での発言だけではなく、クラスやクラブ活動指導までが、ある方針で均質に固められてしまう。職場で多数を占めるためにそれがなされるから、どうしても目に見える点数主義に傾く。やがて授業が破綻する。クラスも平衡感を失う。それを糊塗する為に、生徒にも同僚にも強圧的になるのである。
芸術でもスポーツでも陶芸でも山登りでも、それに没頭して本業や日常生活が見えなくなり「全面化」すれば、「スターリニズムやナチズムの世界になる」ことは避けられない。
「要するに政治というのはたまにやるのがいいのだ」けれども、「たまには」やらなければ他の活動が全面化してその世界のスターリニスト・独裁者になる危険を常に孕んでいる。 「全面的発達」はかなりの難物なのである。飽きる癖も大事にしたい。
辻井喬は政治に対して、常に「たまに」しかし「ラジカル」に関わった、関わらざるを得なかった詩人・実業家であった。いずれに対しても、全面的に関わる事がなかった。
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