原爆投下や大空襲を、高級官僚や陸海軍幹部だけが生き延びている

 大戦中の中国や東南アジアなどで戦った兵士の回想録や文学は、多く出版もされている。だが広島・長崎の被爆兵士の記録を捜すのは困難である。何故だろうか。

 広島は昭和20年8月、西日本を統轄する第二総軍司令部が置かれ「軍都」と呼ばれた。その他中国軍管区司令部、陸軍幼年学校などもあって、8万~約4万3000人の将兵が広島にいた勘定になる。 
 8月6日広島残存人口は28万人と報告されていた(約35万人の市民や軍人がいたとする統計もある。これには、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを含んでいる)
 そこに午前8時15分、史上初の原子爆弾が炸裂、わずか4カ月半(つまり昭和20年中)に、14万人が死亡。その後の爆死者併せて21万人、広島の人口の75%が爆死したことになる。軍人が4万3000人だったとしても、その75%は3万3000人を越す。
 将兵の死亡について日本の記録は、「軍事機密の壁に阻まれ明らかではない」としたり、「数万の将兵が広島で死んだ」と投げやりである。
 事実は、広島の陸軍幼年学校は、府中町に移転して誰もいなかった。第二総軍も司令官はじめ幹部は生き残っている。上級司令部の司令官と参謀は生き延び、高級将校のほとんども生き残ったのである。高級軍人と未来の将校は助かり、死んだのは兵卒と市民ばかりの印象が残る。
 東京大空襲でも政府と高級官僚、陸海軍の主要人物は生命の被害を受けず、無事に終戦を迎えている。空襲のあった65都市でも、現地の司令官や官僚、地元有力者たちは生き延びた例が多い。
 戦争を仕掛け煽り、利権と権力を手にした張本人たちが無事であったのはなぜか。高級軍人は、市民や兵卒を犠牲にして安全な場所にいたのではないか。

 原爆投下後、中国軍管区司令部では3、40名の当番女学生が爆死。ところが、司令部に参謀は2名しか出ていない。中部軍管区司令部(大阪)は参謀16名、四国軍管区司令部(善通寺)も11名、西部軍管区司令部(福岡)に至っては、参謀部は20名。不自然である。

 戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の調査では、広島で爆死した将兵は3243人と報告されている。『米軍資料 原爆投下の経緯-ウエンドーヴァーから広島・長崎まで』(東方出版1996年)は、アメリカの公文書館で機密解除になった報告書を集めたものだが、そこには、(広島にいた9.000人の兵上のうち4,000人が死亡し.3.000人が傷つき、2,000人がのがれた)とある。これは戦後のGHQの調査である。
 広島の軍隊は、実は9000名、あとはどこにいたのか。生き残ったのだから安全なところに避難していたのである。
 蜂谷道彦の『ヒロシマ日記』には「逃足の早かった軍隊」とある。広島市街で爆死したのは、戦力にならない人々。小銃さえない玉砕予定部隊の老兵、竹槍の女子挺身隊員、女学生や中学一、二年生、国民義勇戦闘隊に編制された戦闘力のない市民にすぎない。
 「逃足の早」いのは、日本軍幹部のお家芸だろう。満州でも、碌な装備もなしにソ連国境地帯に開拓団や民間の男たちを動員して、そのすきに家族ぐるみ飛行機や特別列車で逃げている。ソ連参戦前、敗戦前にである。
 
 「・・・8月9日には、長崎に原子爆弾がおとされたのです。 新京駅では早くもその日、関東軍首脳の家族の、家財を入れたピカピカのトランクとか、ぎっしりつめた柳こうりが、所狭しと駅構内に並べられ、その上には毛布を敷いて女、子供が腰をおろしていました。列車は何便も準備されて朝鮮をさしたのです。奉天などもそうでした。軍司令部が新京在住の幹部家族を逃すと、次に駅へおしかけたのは、高官や政府要人の家族らでありました」  山田盟子著『ウサギたちが渡った断魂橋』新日本出版社刊

 広島市街で爆死したのは戦力にもならない人々ばかりである。小銃もない玉砕予定部隊の老兵、竹槍の女子挺身隊員、女子学生や中学一、二年生、国民義勇戦闘隊に編制された戦闘力のない市民にすぎない。
 
 7月末から8月5日まで広島市内には、爆撃予告のビラが米軍機から蒔かれたり、連合国側の対日宣伝放送で「大空襲」や「壊滅的攻撃」の噂が渦巻いていた。
 軍首脳はじめ、警察や市役所、県庁の幹部の耳にも入っていた。大本営からも「警戒命令」が出ている。にもかかわらず軍は、中学生以上の市民を爆心地周辺に動員して、被害を拡大させている。何のためか。


 「学校関係者は、口を揃えて、(動員された生徒が)危険な作業に出ることを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、防災計画上、一日を争う急務だからと強く出動を要望しました。会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒の出動は必要であると強調し、議長に決断を迫りました。議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動することに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増し、少数の集団として終了時間は一般より二時間位早くすることでようやく妥結しました」原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(新日本出版社 2006年)


 こうして学徒動員実施要項にある中学校一、二年生への配慮も無視して、大本営が警戒を発した八月三日から連日、義勇隊約3万人、女学生と中学生の学徒隊1万5000人が市内に動員された。

 こんな無茶は狂気の沙汰であり、当時の広島市長の粟屋仙吉には放置できない事だった。 彼は大正デモクラシーを生きた人で、知事や農水局長を務め一旦退官していた。ゴーストップ事件以来、軍の目の敵だったが請われて広島市長を引き受けたのである。
 8月5日夜 
「広島では、・・・畑元帥部下の新任参謀長の歓迎宴に出席するため、招かれた・・・民間人の客は県知事と上級の役人たちと粟屋仙吉市長とであった。その民間人の客と50名ばかりの幕僚たちとが畑元帥と新任参謀長と同室に集まっていた」G・トマスとM・モーガン共著『エノラ・ゲイードキュメント・原爆投下』 (TBSブリタニカ 1980年)


 この夜、粟屋市長は畑元帥に直談判するつもりだったが、畑は「2・3日のうちに」と逃げまわったのである。市長には翌日の情報は伝えられなかったのか、彼は市長公邸で原爆焼死した。

  長崎の場合も奇妙なことがある。長崎市の中心に捕虜収容所があり三菱の兵器工場で働かせるために1000名が収容されていた。だが僅か8名が死んだだけで、しかも米兵は誰も死んでいない。
 それだけではない、三菱は日本人労働者を、警戒警報が鳴り響いているのに防空壕に避難させず働かせつづけたのである。
  もし、日本軍部が原爆の威力を知るために、意図して義勇隊約3万人、学徒隊1万5000人を市内に動員したのなら、広島の一発で恐ろしいまでに知ったはずである。だが長崎の原爆が広島のウランではなくプルトニウムである事を、軍部が予め知っていたとするなら辻褄は、見事に合う。 こうなると、東京大空襲や原爆投下の責任者Curtis Emerson LeMayに勲一等旭日章が贈られたわけも、より鮮明になる。

追記 常備軍は、必ず腐敗して自らの権益と威信のために国民を統制支配する。ごく少数の例外があるとしても、決して国民を守らない。

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