「重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。
「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」
「ですから死なないように処置して、助けるのです」
「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」
「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」
この二言で連隊長は沈黙した。明らかに「処置」とは 「殺せ」を意味する。高級将校の保身のために言質とならないように、「殺せ」とはいわず、「処置」の用語が用いられたのである」(古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)川島中尉は、茨城県古賀市の川島恂二博士。元軍医。連隊長が沈黙したのは、国際法を知っていたからである。
もう一つ『日本軍兵士』(吉田裕著 中公新書)から例を引こう。
「処置」命令に抵抗する衛生兵もいた。第三〇師団第四野戦病院に所属していた衛生伍長の平岡久は、1945年6月、フィリピンのミンダナオ島で、部隊の撤収に際し、患者収容隊に「戦闘にたえざる者は適宜処置すべし」という師団長命令を大隊長から伝えられた。そのときの状況を平岡は、次のように記している。
・・・赤十字の腕章を持っている私は精一杯の抵抗をしました。
「『処置すべし』 とは如何なる事でありますか」
「この大馬鹿者奴、帝国軍人として戦友に葬られる事こそ最高の喜びじゃ!やれ!と大喝され、刀のツカをたたいて怒鳴りつけられると
「判りました」 と答えてしまいました。(『戦争と飢えと兵士』)
「処置」 に抵抗する傷病兵もいた。ルソン島で兵站病院・・・撤退時の病院内の混乱について、衛生兵の回想がある。1945年1月、兵砧病院の撤退に際して「処置」命令が下った。命令を受けた衛生兵たちは躊躇しながらも、熱が下がり元気になる薬だと称して、傷病兵に薬物を次々に注射してまわった。そのとき、ある傷病兵は、「おい衛生兵!きさまたちは熱が下るなんぞ、いい加減なことをぬかして、こりゃ虐殺じゃないかッ」と抗議し、これに同調し何人かの傷病兵が怒号をあげたという。
これらの例は、味方の重傷者を巡って交わされたものである。捕虜に対してはどうだったのか。結果としての数字が、ある。大戦中の米兵捕虜死亡率は、独軍収容所:1・2%、日軍収容所:37・7%、露軍収容所:10%。 日本軍に捕まった場合の死亡率が圧倒的に高い。
「俘虜の非常時に関する処置」という名の文書が台湾の捕虜収容所跡から発見されている。1枚目画像はここ←クリック 2枚目はここ ←クリック
中に次の記述を読むことが出来る。
処断ノ時機方法左ノ如シ
一、時機
上司ノ命令ニ依リ実施スルヲ本旨トスルモ左ノ場合ニアリテハ独断処置ス
イ、多数暴動シ兵器ヲ使用スルニ非ザレバ鎮圧シ能ハザル場合
ロ、所内ヲ脱逸シ敵戦力トナル場合
ニ、方法
イ、各個撃破ニヨルカ集団式ニヨルカ何レカニセヨ大兵爆破、毒煙、毒物、溺殺、斬首等当時の状況ニ依リ処断ス
ロ、何レノ場合ニアリテモ一兵モ脱逸セシメズ殲滅シ痕跡ヲ留メザルヲ本旨トス
己らの保身に都合の悪い文書を敗戦時に徹底的に焼却した日本軍であったが、膨大な文書の始末には漏れもある。日付は昭和19年8月1日付、台湾の参謀長からの問い合わせに陸軍次官が答えたものである。
この文書が捕虜皆殺し命令といえるかどうか議論されてきた。将校は責任を逃れるためにここでも「処置」と表現するのが常套手段であった。例えばフィリピン・パラワン島では、150名のアメリカ兵捕虜が洞窟に閉じ込められて「処置」されている。ガソリンで焼殺したのである。日本軍支配地域ではこのような事が何処でもおきた。BC戦犯法廷では、「処置」「処断」で捕虜虐待や殺害を命じた上官が免罪され、曖昧な命令を「忖度」した下級兵士が死刑になったのである。
「殺す」を「処置」や「処断」に言い換えれば、言語道断な無茶が通ってしまうのは、昔の軍隊に限らない。
例えば、「処分退学」を「自主退学」に言い換える手口は、日本の高校では厄介な生徒追放の常套手段として重宝されてきた。「処分退学」が学校教育法に基づく懲戒として強制力を伴うのに対して、「自主退学」は本人や家族の都合にも基づく。「処分退学」は強制力を持つが、適法性が求められ手続きは簡単ではないし学校の評判も落とす事になる。特に校長の経歴の汚点となるからどうしても躊躇しがちになる。「処分退学」を「自主退学勧告」と言い換え、当該の生徒や親には「転学や就職の際に、処分退学は不利」と言い含め、親切を演じる。
かつて僕の勤務校で暴力事件があり、クラスの生徒が重症を負った。早速会議がもたれ、自主退学勧告する事になった。僕は訓戒以上は望まないが、生活指導部は自信満々であった。病院や被害生徒の自宅を駆け巡って、疲れ果てて帰宅した僕に、加害生徒から電話があった。彼は助けを、求めてきた。どうしても退学したくない、どうすればいいか、何でもすると言う。彼は『兵隊ヤクザ』の主人公大宮を高校生にしたような生徒だった。「現社」の授業で僕は、困ったときに役立つのが「社会科」だと啖呵を切っていた、彼はそれを覚えていたのだ。
「何があっても、自主退学に応じるな。勉強を続けて卒業したいと言い続けろ」と指示した。彼の親にも説明をした。案の定、生活指導部はカンカンになり、指導と称して無理難題を彼に連発した。無理難題をこなせなければ、「指導拒否」で、退学の口実を積み重ねる手筈だった。勉強の苦手な彼に、拷問としか思えない量の課題を連発したのだ。しかし彼は死に物狂いで頑張った。それは一ヶ月以上続いたが、彼は乗り切り、卒業した。
僕は、あまり喜べなかった。それほどの価値が、あの学校の授業や教師たちにあるとは思えなかったからである。
追記 自民党は改憲して9条第二項に「必要な自衛の処置」をとる実力組織として「自衛隊」を入れる腹らしい。議会も学校も、言葉を磨き鮮明にしなければその役目の果たせない場所である。そこで言葉が、限りなく曖昧に錆び付いてゆく。行方不明にもなる。
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