「第一線の研究者」とは何か / 批評は誰が誰にすべきか

斎藤喜博は校長になっても教室に押しかけ授業した
生徒の批評は辛らつであったが、それが喜博の楽しみだった
 「法隆寺には鬼がいる」と言われたことがある。宮大工の西岡常一である。法輪寺三重塔に鉄骨補強をしろという学者にかみついて「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」 (「斑鳩の匠 宮大工三代」 平凡社) と反論したのである。もちろん今、三重の塔にも五重の塔にも鉄筋は施されていない。それが我々の誇りになっている。
  「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする・・・結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」(「木のこころ・仏のこころ」春秋社)
 自分で鋸や鉋を握って建物を作ったこともない者が、千年の経験を蓄積した棟梁を差し置いてものを言うのに西岡常一は我慢がならなかった。
 青少年を相手にろくな授業をしたことのない学者や、生徒と教室から逃走した者が「研究者」顔して、「大工の弟子以下」の講評をたれるのを「現場の教師」たちはどうして有り難く拝聴するのか。何故、「現場」の鬼になって噛み付かないのか。

  「・・・○×科教育学会に行ってきました。一線の研究者に自分の授業を批判してもらえるのは、よい機会でした・・・」若い教師からの便りにあった。仮に彼をT君と呼ぼう。
  T君によれば、小中高教員言うところの「一線の研究者」すなわち大学教員は、学校で教える教師を「現場の教師」と言うらしい。自分たち大学研究者を「一線」と自認しておいて、それとは異なる「現場」で教える教師があると言うわけだ。
 第一線とは、つまりfrontである。では一体何に対して前線なのか。全ての教育関係者にとって、frontは日常の教室でなければならない。それは国民の教育権の主体が、先ず何を置いても生徒自身であることから自明のことだ。だとしたら、「現場」から離れた研究者こそその論考を、「現場」教師から批評されねばならぬ。しかしそうなら、研究室はなぜ問題が長年にわたって多発する学校にないのだ。なるほど教員養成系の大学は、多くの付属校を擁している。しかしどこに偏差値の底辺に位置する付属校を抱える大学があるか。

 そんなことを試みたのは、林竹二だけだ。だが個人であって、組織ではないから持続性はない。○×△☆科教育学会が、独自に困難高の中に、研究室を置こうとした気配すらない。一線とは、問題を抱えた学校から「遠く離れている」とういことに過ぎないのか。有能な一線の研究者が、自ら望んで底辺高に赴任して戻らないという話もない。それどころか、論文や研究発表好きの「現場」教師たちは、ことあるごとに問題を抱えた学校から離れて「栄転」するのだ。まるで逆転防止装置付きのネジ回しのようだ。
 もし本当の「一線の研究者」が実在するならば、自分の研究に対する「現場教師」に批評を乞い、困難と烙印される現象のただ中に身を置くに違いない。かつて島小の校長斎藤喜博は授業中の教室に入り、求めて「僕ならこうやる」と授業をやって見せたという。生徒たちが「校長先生の方がわかりにくい」と言うことも屡々だったという。それを楽しんでこそ「第一線の研究者」である

 問題を抱えた底辺から「遠く離れ」てネクタイを締め革の鞄を抱えるのが「一線の研究者」ならば、問題に翻弄されて過労気味の「現場教師」は、土人と言うことになる。そんな現場教師は、論文を書く暇も、学会に出る暇もない。日々消耗するのだが、磨きをかければ玉のような輝きに満ちた体験、第一線の研究者が思いもよらないような体験を内に秘めている。秘めていて本人は気付きもしない。そこに「第一線」の研究者は、足繁く通い詰めなければならないのに、そっぽを向いて去って行く。

 選別体制の極まった日本の教育を総体的に捉えるためには、付属学校や教委の指導重点校など粒のきれいにそろった集団を相手にして埒があくわけがない。
 生活にも学力にも問題を抱えた多様な生徒が内部矛盾を引き起こし、それを自ら克服する過程にこそ「アクチブ」な教育のヒントがある。

 もし第一線が「学会」での論文数や発表実績による地位や評価を意味するとすれば、例えば医学のfrontは病床や手術室にはないことになる。なるほど「白い巨頭」で描かれた教授回診が横行すれば、frontは教授会ボスにある。しかし現実の病床や手術室、そこには絶えず生死をかけた問いが渦巻き、定石や権威が通用しない、何が起きるか予測がつかない、緊張がある。町医者がそこに目を向けないで、「一線」の権威の批評を有り難がるとしたら患者は去る。権威の後ろに付いて歩く医者に信頼は置けない。                           
 教員が第一線の研究者の言葉を有難く拝聴するとしたら、それは教師が「第一線の研究者」の後ろに並んでいると言うことだ。研究者の前や横や後ろには、文科省や教委の肝煎りがいるかも知れない。

 教室が怖くて校長室に逃げ込んだ管理職も、定年退職して大学に迎えられれば「現場での経験を買われてその地位に就いた」と紹介されるから厄介である。しかしここでは「現場」と言う言葉は、授業も生徒も怖かった素性を糊塗する隠れ蓑として機能するのである。二重に「現場」を愚弄している。

  T先生、「一線」の研究者に君の教室で授業をさせ、批評してやるといい。何人が手を上げるだろうか。うち何人がT先生の勤務校を聴いても手を上げたままだろうか。返事は聴かずとも分かる。先ずこう言うのだ。「イヤー先生たちの苦労には平素敬意を抱いております」と持ち上げておいて、そして「とても私のような非力な人間に出来る仕事ではありません」と逃げるのである。


 この問題にどうしても欠かせない厄介がある。それは、「教科教育法」という分野の人気のなさである。大学生で「教科教育法」に積極的に興味を持ち大学院で専攻しようとするものがあるだろうか。実に面白さに欠ける、特に社会科教育法には魅力がない。その分野に多くの現職教員や研究者が集まるのは、積極的な探求の対象として「社会科教育法」が注目を集めるのではなく、学校という現場からの逃避の手段になっているからではないか。そうでなければ、この分野の「学会」員たちの、自発的従属性を説明できない。
 
追記
 僕の父は酒癖が悪かったが、戦後の大規模橋梁や鉄道建設の構造計算と設計には大方携わった。始まりは洞海湾をまたぐ若戸大橋だった。新幹線トンネル、駅舎、橋梁の構造計算をするとき、手回し計算機が何十台も事務所でうるさかった。トラス構造各部分にかかる力を計算するのは特に厄介で、数学の得意だった父は数値を求める近似式を作り促されて特許を取った。数学に特許があると聞いてびっくりしたものだ。この種の設計では盛んに使われ、作業を大幅に簡略化した。が、父は特許使用料を取ったことがない、取るのを潔しとしなかった。小学生だった僕は、なんて勿体ないと思ったものだ。そのせいか、父を破格の給与で雇うという巨大コンサルタントが現れ、父の事務所は大荒れに荒れた。父と数人の友人で立ち上げた事務所だ。仕事の殆どは父に来ていた。父が抜ければ事務所は潰れ、数十人が路頭に迷うかもしれない。それから数週間、毎晩事務所の社員が入れ替わり立ち替わりやってきて夜遅くまで、父に嘆願を繰り返した。お陰でうちの所得は上がらなかった。別荘・運転手付きの生活の夢は瞬く間に消えた。僕が中学生になると、父に博士号を取れと勧める人たちが現れた。その頃、父は土木学会の理事も務めて、大きな土木プロジェクトには大抵拘わって論文もたくさん書いていた。父は、それも固辞し続けた。終いには土木学会の重鎮も登場して、論文は今まで発表したものでいい。外国語による抄訳もこちらで準備すると申し出た。それでも父は首を縦に振らなかった。最期のプロジェクトは瀬戸大橋だった。
 何故酒癖の悪い父は、旨い話を断ったのか長く疑問だった。だが、西岡常一の一件でようやく納得出来るようになった。父が巨大プロジェクトで接するのは、父を除けば国鉄や公団の課長たちだった。彼らの肩書きは立派だったが、仕事は父に投げられた。それが国鉄や公団の仕事となって、父の事務所に下請けに出された。実力を伴わない肩書きに怒りを持っていたのだ。父の特許を指定して、父に仕事を頼む会社もあったが、それが目の前のうらぶれた父であることを知るものはなかった。
 西岡常一の生活は貧しかった。宮大工は神社仏閣以外の仕事はしないというしきたりに忠実な頑固者だったからだ。父も頑固だった。鹿児島に帰るたび、叔父や叔母がその頑固さで僕たち家族がいかに窮したかを話してくれたものだ。米を買えないどころか、税務署の差し押さえは二度もあった。電球にまで札が貼られたのを覚えている。夜逃げという言葉を4歳にならぬうちに知った。 頑固者は酒に溺れ貧乏を家族に強いるが、外から見れば世の中を痛快に見せる効用があるのかも知れない。   

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