タッシリ・ナジェールの岩絵には、 ここに住んだ人間の魂が疎外されている |
この自己疎外の概念がフォイエルバッハやマルクスによって社会的な過程に翻訳され、それが一般の通念になる。もともとは、人間が自分を意識するための不可避の過程である。即自(直感)から対自(悟性)へ、というその対自がそれであ。それは自己対象化の機能にはかならない。だから、たとえば、人間が自分の内部にあるものになんらかの形を与えてそれを表現しょうとすれば、それはすなわち自己を疎外したということになる。この意味で、言葉というものは人間精神の疎外形態なのであり、絵画にしても同様である。サハラ砂漠タッシリ・ナジェールの岩絵は、かつてここに住んだ人間の魂が疎外されたものなのだ。
人間は自分の顔を見ることはできない。自分の顔を見るためには、それを鏡という外的なものにうつして、はじめて認知しうる。おなじように自分の意識も、音や形など外的なものに疎外して、知ることができる。表現とは、まさしく自分を外へ押し出す作業にはかならない。画板とは自分の顔をうつす鏡なのである。
とすれタッシリ・ナジェールの岩は、かつてここに住んだ人びとの鏡であった。彼らは、岩を画板にして自分をうつしたのだ。
しかし、ヘーゲルにとって肝腎なことは、精神がいったん外へ押し出したものを、ふたたび自分の内へ取りもどすことであった。彼はそれを止揚(即自かつ対自、あるいは理性)と呼んだ。
生徒たちは授業を自分の中に取り込み、対話しノートや論文に記す。対話・ノート・論文、即ち表現によってはじめて自分の学んだことを認識することが出来る。教師の指示に従って複写するだけでは、自己疎外にさえならない。暗記とはそういうことだ。
いかにして止揚に至るのか。ある生徒は、ノートは先生と私の作品であると言った。またある生徒は、授業にのめり込んでいると突然書くべきことが生まれる、丁度鶏が卵を産むようにと表している。止揚の経過は一様ではない。
我々も自ら構成したものを、教室で青少年たちに一旦投げ出す。これが授業であり、教室は画板である。投げ出したものは、批判や不満とともに反応が返ってくる。教室における反応が、我々教師を写す鏡である。反応は苦くもあり、意図したものを超えていたり、挑戦的であったりするが受け入れて吟味する。吟味の過程が悟性=Understandingの働きであり、教師はここを手掛かりに成長して、吟味した結果が授業の構成に生かされることになる。ここまでが授業である。ただし反応は、直近のテストだけに現れるわけではない。長い年月を経てようやく芽を出すことも少なくない。タッシリ・ナジェールの岩絵はそれを教えている。
短期間に現れる成果は短期間に消滅する。大阪市長は学力テスト成績を人事評価に反映させて、手当を増減させると発表した。
教育の成果は、こうすればああなると直線的に現れるものではない。思いがけない経路を経る複雑性を持っている。子どものの意欲は、教室の働きかけによってのみ引き出せるものではない。教室に現れる子どもの意欲は、むしろ家族を取り巻く社会経済状況を写す鏡の像として現れている。子どもの成績と最も大きな相関関係が明らかになっているのは、貧困である。「政令市の貧困と学力の相関」を索引にかければ一目瞭然。行政の課題なのだ。行政の浅はかさを棚に上げて、教員に責任をなすりつける現象はいつまで続くのだろうか。
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