「星」は人々に関心がない

ゲバラの治療は敵味方の別なく行われた、彼は高見の星ではない
 「星は何でも知っている」という流行歌があった。勤評闘争が激しさを増し、三井三池闘争が燃えさかった頃である。 「星は何でも知っている。夕べあの子が泣いたのも・・・」と歌っていたが、星は何にも知らない。我々の存在は見えもしない。そもそも思い至らない、無関心なのだ。対話なんてあろう筈がない。にもかかわらず、人々は星=スターに何かを期待して押し寄せる。俳優、プロスポーツplayer、教祖・・・に大枚をはたいて疲れて帰る。それでも「元気を貰った」と満足する、「元気を貰う」とは、元気な「星=スター」を拝観したにすぎない。大量のCD購入と引き換えに握手するだけで、天にも昇る気になる。
 期待する何かとは、はかない夢であって要求ではない。依存を深めて何かを「貰」える日をひたすら待つだけで、決して自立した行動や革命には至らない。要求は、連帯を生むが、夢はせいぜい聖地巡り。
  「輝く星に心の夢を、祈ればいつか叶うでしょう・・・」と甘くささやいた『星に願いを』は、労働組合嫌いのディズニー作品挿入歌だった。
 
 例えば、もう少し目が大きく二重瞼なら、就職も恋愛もうまくゆくのにと悩む人は少なくない。だが多くは、甘く夢想するだけで、就職や恋愛がうまくゆかないのは、社会構造的な差別に基づくなどとは考えない。目の大きさの問題ではなく、親の職業や一族の出自が問題だったりする。その構造がなくならない限り問題はいつまでも続く。しかし、周りは社会的問題なんて考えることが危険だと言う。だから「祈ればいつか叶うでしょう」とささやく声に、縋り付きたくもなる。
 それ故「スター=星」が強調され、人々がそれに憧れる社会では、格差は放置される。社会改革や革命は限りなく遠い。

 ここに、革命家に医師が多いわけがある。フランス革命におけるマーラーも、キューバ 革命におけるゲバラやアルジェリア独立革命におけるフランツ・ファノン、選挙による社会主義を実現したチリのアジェンデ大統領、ことごとく医師である。医師孫文は辛亥革命を指導し、中国革命に忘れてはならない魯迅も一度は医学を学んでいる。
 なぜだろうか。医師は「星」にならないからである。 医師は、患者一人ひとりに具体的に関わらざるをえない。人間を、一般的に捉えて集団として操作するわけにはゆかない。病気は人によって異なった現れ方をするからだ。常に医師は対象を、固有名詞のかけがえのない存在として見て対話しない訳にはゆかない。医者がすべてそうであるわけでもなく、医者以外に同様の精神を持つものが少なくないいことも事実である。だが職業が人間を作ることも確かだと思う。
 政治を集団の力学として捉えるだけでは政権奪取のみが残り、人々は固有名詞のない数として磨り潰され革命は死んでしまう。革命の政治に課せられるのは、固有名詞持った人間の具体的願いとの対話である。
  例えば、大学教育をすべての国民に保証するとき、職場の立地や学ぶ個人の条件に合わせて手当を支給し、授業のほうが教授や実験道具教材とともに工場にやってくるのである。医療は、どんな地域であれ設備を整えた診療所に医師らが泊まり込み、場合によっては馬に乗った医師が薬や医療道具とともに峰や谷を越えて診察して回る。日本は、学生や病人が困難を強いられる、おかしなことだ。災害時の避難態勢も、一人ひとりの事情が優先され計画されるから、一律に体育館に押し込まれることはない。
 1964年カストロの演説が、長い沈黙でなかなか始まらなかったことがある。堀田善衛が『キューバ紀行』に書いている。この7月26日サンチァゴ・デ・クーバの広場には、全キューバから30万人が押し寄せていた。
 「・・・事実としては、ほんの十秒はどの時間であろうが、なかなかに話し出せないでいるという感じであり、それを察したかのように、群衆のなかから甲高い声で、・・・ 
 「フィディル、いま話したくないのなら、待ってるぞ!」という声がかかる。・・・ フィデル・カストロが話しはじめる。きわめて静かに、むしろ何か後悔をでもしているかのような声調で、「われわれの招きに応じてくれた方々、モンカダ要塞襲撃の際に、また革命の勝利のための戦いに倒れた同志たちの御両親の方々・・・」とフィデルが呼びかけたとき、運動場に満ちていた群衆のなかから、それほどに声高くというのではなかったが、なにか物凄い、腹にこたえる、吠え声とでも言いたいような、むしろ動物的な声″が起った。動物的な声 - 話しかけるフィデルのすぐ下の席、つまり招待者の席の中央が遺族たちのために留保されていたのだが、その両親″たちのなかにはすでにハンカチで眼を蔽っている人が何人もいた。そうして私はそれらの人々を眺めて、それらの両親たちが決していわゆるお爺さんお婆さんなどではなくて、せいぜい50代から60代ほどの年恰好の人々であることを知って、ああなるほど、と思ったものであった。そうして、30万の大衆から上った動物的な呻きのような声ぼ、彼らの若い革命家たちの死をいたむものであることは当然であったが、それはもう一つ、このフィデルの演説が、ただの一方的な演説ではなくて、聴衆からの積極的なうけこたえのある、一種の対話であることを、この演説の当初からしてすでに示していると思われたのである」
  カストロも広場に押し寄せた人民大衆も、対話する革命の精神を共有していることがわかる。だからこそ、熾烈極まる米国の干渉を跳ね返し、長い時を経て逆に米国を孤立させることができたのだ。

 学校もあるいは学校こそ、固有名詞を持った一人ひとりのの違いに応じた対話が必要な筈。 だが、一律に処理したがる。学校も社会も。どうしてそういう職業意識を日本の教師が持つようになったのか。日本の教師は、自立して職務を遂行できないからだ。それを恐れて孤立している。青少年の特性を奪い、固有名詞を剥奪することこそが、教育だと考えているかのようである。
 それ故、「スター」的成功が教科でも「部活」でも強調され、偏差値と大会実績が不当なまでに賞賛されるのである。輝く「スター」が医学部であり、甲子園や全国大会である。これ見よがしに、合格実績や大会出場が、校舎にぶら下げられる。医者やプロスポーツ選手は、もてはやされるべき存在として君臨することになる。その他大勢は、自ら願いを矮小化して、「スター」から「元気を貰」い、たまに「自分にご褒美」して満足しなければならなくなる。その惨めを覆うように蔓延るのが、周辺国家・民族や少数弱者を見下す排外主義である。
 僕は、全国大会と偏差値が嫌いだ、あらゆるメダルや賞も。それが青少年の社会的関心を潰し、日本の政治を停滞させ利権の巣窟にするのを放置しているからである。

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