自分で「スゴイ」「クール」と言わねばならぬ国の惨め 2

アタチュルクは識字教育の教頭を自認した
 例えば、インパウンドだ。なぜ「入国旅行者」で済ませないのだ。意味が掴めないで当惑している人は多い。サステナビリティや トランスペアレントと言う必要があるのか。衣料品や施設の名前はまるで、日本語禁止令が出たかのようだ。行政文書にも、インフォームドコンセント、アジェンダ、コンプライアンス、エビデンス、ポートフォリオ、シャイニング・マンデー・・・きりがない。まるで従属の実態を見せようと努力しているかのようである。米国の理解や覚えさえよければ、国民はどうでもいいらしい。 学校の職員会議でさえ、司会はペンディングと言いたがり、発言者はウィン・ウィンやアクチブラーニングを連発する始末。教育現象を生徒や社会から解明するのではなく、行政文書に見出すからである。

 写真は、近代トルコ建国の父アタチュルク大統領の識字教育光景である。
 これにはケマル・パシャの秘書を務めた、ソヤック氏の証言がある。
 「村役場の前の広場に、病気など特別な事情のある者以外の村人と子供たちが集まっていた。アタチュルクは黒板に新しいアルファベットを書き、その発音を何度も村民にくり返させると、今度は新しい文字を組み合わせて、村民たちになじみ深い言葉、すなわち、『小麦』や『大麦』、『刈り入れ』などを書いて、読み方を教えたのだった。字が読めるということは、村人たちにとって実に大きな驚きであった! 最初は、か細い声で読んでいた男も女も、字が読めるという喜びから、次第に声が大きくなり、しまいには怒鳴るように発音するようになったのである。 
 やがて、ひと通りの授業が終ると、アタチュルクは村人の中から一人の農民を呼びだした。その男は五十歳やらいで、おずおずと黒板の前にやってきて、いったい大統領閣下が自分に何を命じるのだろうかと、まったく不安げな様子だった。『君は何という名前だね?』とアタチュルクが尋ねると、その農民はびくびくしながら、『へえ、カラ・イスマイルという名前で…‥』と小声で答えた。 すると、アタチュルクは黒板にその名前を書き、その下に同じ文字を書くようにうながした。男は不器用な手つきながらも、何とかカラ・イスマイルと読み取れる文字を書いたのである。アタチュルクは黒板消しを使って、同じ作業を何度かくり返してから、今度は手本なしにカラ・イスマイルと書いてみるように命じたのだった。すると、その農民は考え考え、ぎこちない書体ながらも、ちゃんと自分の名前を書いたのである! アタチュルクは彼を抱きしめて祝福した。 カラ・イスマイルは、しばし茫然としていたが、やがて、「わしは字が書ける!」と両手を上げて叫びながら、仲間たちの大拍手に迎えられて戻っていった」 島直政『ケマル・パシャ伝』新潮選書
 中央アジアの遊牧民由来のトルコ民族は、イスラム教を信じアラビア文字を使ったがアラブ民族ではない。トルコ語にはには8つの母音があるのに、アラビア文字には3つしか母音がない。従って、トルコ語をアラビア文字で表記することには無理があり、文盲率は高かった。そこでタチュルク大統領は、トルコ言語協会設置、変形ローマ字による表記の審議を命じたが、結論が出ない。大統領自身が、変形ローマ字を考案して、その普及の先頭に立ったのである。それが冒頭の写真と秘書の証言である。彼の方針は囚人にまで及び、読み書きを覚えた者の刑期は短縮され、刑期を終えても読み書きができるまでは出獄させなかった。おかげで文盲率は急激に低下、おかげで我々もトルコ旅行中、街の看板やバスの行き先表記で困ることが少ない。

 次いでアタチュルクは、トルコ語の中からアラブ系やペルシャ系の言葉を追放するために、本来のトルコ語に戻す作業を言語協会に命じている。オスマン帝国では、アラビア語やペルシャ語が上品と見なされ、当時の単語の8割近くが支配階級のオスマン語に取り込まれ、民衆のトルコ語はいやしいとみなされていた。民衆のトルコ語にさえ、アラブ系ペルシャ系の外来語は入り込んでいたのである。作業は困難を極めたが、短期間に数千語が本来のトルコ語に戻され、適当な言葉が無ければ新しく考案され「純粋トルコ語」がつくられた。義務教育は、ローマ字表記の「純粋トルコ語」で行われたのである。言葉の自立無くして、国民国家は成立しないことをアタチュルクは身にしみてしみて感じていた。

 日本のカタカナ語流行は、「格好良さ」、「上品さ」を求め、「民衆」の言葉との意識的「差異化」に走っているという点で、オスマン語的危うさを呈している。言葉の機能は、正確な伝達である。上から目線で大衆を見下し、幻惑支配することではない。大衆に通じなくとも、自分たちが高尚に見えればいいとでも思っているのか。国会の質問も答弁も、横文字だらけである。格好良さやエリート振りを見せつけているつもりが、かえって軽薄さを際立たせている。
 政権は、追い込まれるたびに「丁寧に」説明と言い逃れてきた。丁寧とは、誰もが知っている言葉で語ることである。少なくとも政府、国会、NHKは横文字なしの言葉を使うべきだと思う。新聞も週に一度はカタカナ語なしの紙面にする努力をすべきである。意味不明なカタカナ語だらけにして、どこが美しい日本だ。まるで言葉のゴミ溜めだ。文化が腐臭を発している。

追記 日本「スゴイ」を言い立てる番組の名称すら「クール・ジャパン」である。日本に嫌気がさしているのは、実は彼ら自身ではないか。「手前味噌・日本」でいい。

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