考える主体

  自分で考えろと言われて当惑することはある。調べることも批判することもせず「考え」たつもりになって意地を張ることもある。
 「地球温暖化対策なんて簡単じゃないか、クーラーを世界中に付ければいいじゃないか」と言い張る生徒がいた。級友達が、あきれ果てて反論しても「これが俺の意見、意見は自由だろう」と討議には応じない。言いっ放しで平然としている。
  僕は官房長官の記者会見を聞くたびに、彼を思い出すのである。何を突き付けられても「問題ない」と討議を遮る、打ち切る。この言葉はデーター偽造した業界トップの口癖にまでなっている。
 ・・「品質に、強度に問題はない」・・・。 それをリーダー性や自信の表れと勘違いして、カッコいいと賛美する者もいる。無知も極まった。彼らは、考えて自らの過ちが露呈することを恐れている。

 考えるには、先ず本人が主体として自立しなければならない。従属した者に批判的思考は望めない。ただのお喋りに過ぎない。考え伝える技術としての論理、考えるべき対象への認識も欠かせない。
 実は教師だって「自分」で考える者は少ない、彼等は立場という偏見に従属している。それゆえ「他己」がない。相手の立場に立つのは容易いことではない。相手への理解と柔軟かつ大胆な想像力を要するからである。
 想像力に於いて、教員は大きく高校生に劣っている。自分さえやれないことを生徒に求める。その根底にあるのは、奇妙な怠惰である。
 「五体投地とマニ車」は一見奇妙な矛盾。一体彼等は熱心なのか怠け者なのか、と僕は中学生の頃考えた。数年を費やして五体投地しながら、カイラスを目指す。しかし他方マニ車を回して、或いはお経を印刷した布をはためかせてお経を読んだことにするタルチョ。
 生徒も教員も朝から晩まで日曜も正月もクラブと分掌の雑務に心血を注ぐ。しかし、授業は古いノートや指導書で済ませる。生徒はそれを居眠りと暗記とカンニングでやり過ごす。考えない、よく言えば無我の境地、ということでは五体投地やタルチョと同質である。だが、カイラスを目指して黙々と五体投地する姿も、人里を遠く離れた峠に烈風を受けてはためくタルチョも、我々の饒舌を封じるものがある。しかし黄色くなった講義ノートと居眠りを、風格とは言えない。

 「恋人や家族を守る・国体に殉ずる」と絶叫して出陣。現地では強姦・略奪・虐殺・・・に明け暮れ、ついには大本営にさえ見捨てられ餓死した日本軍兵士。同じ構造は企業にも官僚組織にも大学にもある。宗教団体や政党さえその例外ではない。我々は、現象に陶酔し感動はする。だが、その実態や本質に迫ることをしない。無暗に考えることは「危険」な行為と刷り込まれている。

 人間は、日常の「閑」においてのみ思考出来る。 フィンランドの高校の午後、教師達は談話室に集う。会議の為ではない、ただお茶を飲むために。ハーバードやケンブリッジでも午後は研究者達がお茶に集まり、専攻を超えての会話の中から世界的発見や論考が芽生えるそうだ。生徒たちは構内のあちこちに散って、弦楽四重奏など室内楽を楽しむ。だからいざという時、デモが出来るのである。僕が教師に成り立ての1970年代はじめの職員室には、その雰囲気はかろうじて残っていた。自由なお喋り、目的のない会話が「寛容」の精神を揺籃するのである。

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