兵学校で教えた祖父は、なぜ孫の勉強を禁じたか

入学まで勉強は禁じられた
 「勉強」がしたくて、僕は1時間も前に小学校に出かけた。 母や祖母が「ゆっくりせんね、急がんでん学校は逃げんが」と言うのだが、そわそわして落ち着かず小走りして出かけた。線路や田んぼの畦や水路を渡り、お寺と神社をゆっくり捲り、湧き水を飲む。誰もいない校庭を横切り、がらーんとした校舎に入る。窓を開け放って、生暖かく淀んだ夜の空気と冷たい外気を入れ換える。1日の勉強が始まる瞬間を待つ興奮があった。
 入学前は、数字を12までと名前のひらがな7文字だけ教えるのが祖父たちの方針だった。だから大人たちが新聞や雑誌を読んでいる側に行って、知っている字と数字だけを指差しして読んで読んでいるつもりになっていた。
 ある時カレンダーに12より先があるのを知り「こんた何ね」と聞いたが、祖母たちは「知らんでん良か、学校に上がれば勉強すっじ」て言うばかり。こっそり他所のおじさんに聞いて31まで覚えた。それ以上の数字は小学校入学まで知らなかった。ひらがなは駅名の表示を見て憶測した、例えば「しぶし」と書いてあれば、駅で既に覚えた「し」と「し」の間を指して「こんた、「ぶ」ね」と聞けば、側の大人が「じゃが、じゃが」と首を振るので僅かに増えた。
 だがうちの大人は、子どもは遊ぶのが仕事と、教える事を徹底的に抑制した。朝は鶏が縁の下に産んだ卵を集め、漁港のおじさんに魚を貰い、夕方には五右衛門風呂の水を井戸から汲み火を焚き付ける。それ以外は遊ぶ姿を見せれば、手作りのおやつが待っていた。
東京に出て驚いたことの一つに、おやつは店で買うものになっていた事がある。人間や生活が軽く見えた、東京は広いが薄っぺらいと思った。)

 4月の入学が迫ると「よかねー。もうすぐ一年生やねー。勉強出来っど」と方々から声がかかる。さぞかし勉強は楽しいことだろうと、堪らず自然に笑顔になっていた。その頃の記念写真があるが、妻が「こんなに嬉しそうな子どもの写真は初めて見た」と言う。一緒に写っている妹は、撮り直しが続いてすつかり疲れた顔で写っている。僕はカメラの横の大叔母に撮り直しの度に「よかいねー、いっき勉強出来いねー」と声をかけられ最後までご機嫌だった。
 
 入学すれば、その日のうちに授業が始まるとの期待は大きかった。それだけに延々と続いた式に、僕はすっかり疲れ切ってしまった。だから記念写真では僕一人が不機嫌な顔をしている。次の日も次の日も授業は始まらない。僕は裏切られた思いで落ち着かず、消しゴムをナイフで刻んで投げたり、前の女の子のお下げを引っ張ったり、勝手に立ち歩いたりするようになった。先生は困ったと思う。一週間位して初めての参観日があった。僕はその日も立ち歩いていて母は、顔から火が噴き出しそうになったという。立ち歩いているのは二人だったが、先生はプリントを二人に何枚も渡して「みんなに配って頂戴」と指示され、担任と三人で手分けして配った。それから先生は、徐に「さあ、席に戻りましょうね」と促したそうだ。素直に席に着く二人を見て、参観の母親たちは感嘆の声をあげたという。この先生は熊本大学を卒業したばかりの松本先生であった。

  「もういっき学校やねー。勉強出来いねー」と言われる度に嬉しさを隠しきれない僕を見て、妹も勉強は楽しいと思ったに違いない。勉強が軌道に乗るようになり僕が学校から帰ると、ちゃぶ台を出しノートをひろげて「お兄ちゃん勉強おしえて」とせがむ。僕は一刻も早く近所の友達と遊びたいのだが、母が「教えてご覧」と縫い物しながら言う。大急ぎでその日の授業を思い出した。毎日僕は「名前を呼ばれたら元気に手を上げて返事をしましょう」から始めて、お復習いをした。窓から覗き込んでいた
近所の友達の名前を呼ぶと、彼らも嬉しそうにハーイと返事をした。遊ぶ前に勉強するのがこうして習慣になった。先に遊ぶと落ち着けないのだ。
 しかし貧しく、二年続けて差し押さえられた。米にさえ不自由し、三年生になる前に母は結核で血を吐いた。特効薬はまだ普及していなかったから、療養所だけが頼みの綱であった。父は仕事のために上京、僕と妹は生まれ故郷の祖母の家に戻った。

 生まれ故郷では、親戚か知り合いだらけである。知り合いを黙って通り過ぎようとすれば、「寄って行かんね」と叱られてしまう。下校時にはどこかを回るのが日課になった。「先に宿題やろう」が僕の口癖だったから、おばさんたちにはことのほか歓迎された。
 宿題が無く偶に早く帰ると、先に戻った妹が祖母たちの前でお復習いをしていた。正座して教科書を前に突き出して行儀良く朗読している。近所の遊び仲間がやって来て「なおちゃん、はよー、はよー」と遊びに急かす。ランドセルを置いて出ようとすると「今日やったところを、婆ちゃんたちにも聞かせんね」と祖母たちに引き留められた。強引に妹のお復習いに割り込んで、超特急でお復習いをした。おかげで僕はとびきりの早口になった。東京に来て国語の読み方をさせられると、いつも教室が大笑いになるのだった。「早すぎて目が追いつかない」と言うのだ。しかし早読みの癖は直らなかった。 
 町に一軒だけの洋菓子屋の
ケンちゃんにもよく誘われた。宿題が終わるとケンちゃんが、下の店から菓子パンやケーキを運んで来る。暫くするとおじさんが「ありがとう」とニコニコしながら紅茶を持ってきてくれるのだった。「ケーキ屋けんちゃん」がTVで始まったときは驚いた、ケンちゃんの顔も店もよく似ていたからだ。
 
 東京に親戚は無かった。転校当日から、隣の女の子が算数で困っていたので「こうするといいよ」と教えた。彼女はその時初めて、勉強を楽しいと思ったそうだ。休み時間にも教えていたから、周りの子が覗きこんで怪訝な顔していた。近所の遊び仲間の家でも一緒に宿題をやった。やっぱりおばさんたちにはかわいがられた、宿題を先に片付けるからだ。中学生になっても続いた。勉強という単語が「嫌な事を我慢」するという語感を含んでいるとは思いもよらなかった。
                      続く

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