光田健輔と渋沢栄一 / 絶滅隔離と資本の原始的蓄積

  ハンセン病療養所の絶滅隔離と、渋沢栄一に於ける資本の原始的蓄積過程は分かち難く表裏一体である。光田と渋沢がともに行動したのは、偶然ではない。

  勝者が全てを取り、敗者は勝者が得たものに接近する資格もない。 資本主義の構造は非対称性において成り立った。だが市民革命は身分の高い者と低い者の平等=「対称性」を求めて始まっている。

 だから西欧ではブルジョアジーが政治的主導権を握った後も、社会構造に対称性を忍ばせている。                                                    



 「明治維新」では労働者階級が出現する前に政治権力を握ったのは、身分制社会の心地よさから抜け出せない「士族」であった。明治を形成した士族たちは、自らに爵位を与えて貴族化した。そのもとで、資本主義化の「本源的蓄積」が進んだ。だから
日本の近代化は「非対称性」から逃げられない。

 これを資本論が実にわかりやすく説明している。


  「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがりんごをかじって、そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は、それが過去の物語として説明される。ずっと昔のあるときに、一万には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方にはなまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上を使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく、神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかをあきらかにしてくれるのである。それはとにかくとして、前の話にもどれば、一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していくのである」(『資本論』「第二四章 いわゆる本源的蓄積」大月書店)


  侵略戦争で貴族=華族はすさまじく膨張。←クリック 

  「一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していく」構造は、キリスト教国にあっては疑う余地のない「原罪」=真理として語られている。対して日本では、有難い皇恩として膨れ上がったのである。


 それゆえ日本のブルジョア化は、極めつけの「非対称性」に彩られた。富を悉く手中にして「道徳」面をするには、人として生きる術のすべてを奪われた世界を形成する必要があった。

 伝染性の極めて弱いハンセン病をペスト並みの怖い病気と言いながら、光田健輔と渋沢栄一が二人して日本中を遊説して回ったのは必然のなせる技であった。患者絶滅を夢想した光田健輔と日本資本主義の本源的蓄積を強行した渋沢栄一は、まさしく「非対称性」日本の両極を象徴する双子と言うに相応しい。

 一万円札にしてはならない男である。教科書で礼賛してはならない輩である。

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