4/7

 承前 「奇妙な写真」←クリック

 「給料はあたいが手に触れんうちに爺さんが直接受け取っせな、そんまま直さんに送いやったが・・・」笑いながらそう話したのは、父の妹にあたる叔母である、彼女は女学校卒業と同時に勤めた銀行の給料全額を、数年にわたって父に送金した。爺さんとは父の父である。


 叔母が恨みがましいことは何一つ言わず、まるで懐かしい思い出を語るようであったのは、父に対する「畏れ」であったのだろうか。「トメ婆さんは生きとった、直さんが一人で付き添っせーなぁ」と言葉が喉元まで出ていたのではないだろうか。叔母は父を「兄」とは決して呼ばずいつも「直さん」と呼んだ。不思議な距離をおいている。僕を実の子である従兄弟たちと区別なしに可愛がってくれた叔母である。


 トメ婆さんは頑固にハンセン病療養所送りを拒んだ。「どげんしてと言やいやるなら、こん子ば連れていく」と中学生になったばかりの父を抱きしめて離さなかったのではないか。それほど祖母は長男の父を可愛がり、父は「母さんっ子」であった。

 漢文と数学が滅法得意で自宅にも同級生を呼んで教え、自他ともに大学進学を目指していた。しかし生家は士族とはいえ所詮芋侍の末、子沢山で子どもを全て県立中学や女学校に通わせ、家計は楽ではなかった。だから父は授業料の掛らない高等師範学校から文理大学に進学する積りであった。しかし高等師範は広島と東京にしかない。療養所のある熊本には第五高等学校と熊本高等工業学校。しかも高等工業からハンセン病療養所菊池恵楓園までは熊本電鉄で僅かである。父はトメ婆さんと家のために人生を半分捨てたのだと思う。祖父は出来のいい長男を捨て養子に出し、家督を相続したのはトメ婆さんの血筋とは縁のない叔父になった。


 父が熊本を去る決断をしたころ、僕を連れてある映画を見に行った。見終わって繁華街のアーケードを歩きながら僕にこう問いかけたのだ。「今の映画の題名の意味はわかったか」このころ父はたびたび洋画に僕を連れ出した。「無防備都市」や「自転車泥棒」が印象に残っている。「無防備都市って何ね」と僕は聞いた。父の説明は丁寧だった。

 父が問いかけた映画は「4/7」だった。その日僕は映画館の闇の中でこの不思議なタイトルの意味を考え続けていたから、咄嗟に「半分よりちょっといい」と答えた。父は「うん」と頷いて僕の手を曳いた。

 人生の「3/7」を彼はここに埋めた。それは引き返せない青春である。だが、それは「2/7」や「1/7」で終わる可能性もあった。ハンセン病はたやすく回復したり長生きするものではなかった。


 東京行き急行高千穂が、海底トンネルを抜けて暫く夕闇の中を走ると、後ろに門司進行右手に海が開ける。 窓側に僕と妹を呼んで父はこう言った。「あれが九州、見納めだ」                              

 洞海湾を跨ぐ若戸大橋着工の1958年夏てあった。戸畑側の事務所で当時東洋一と呼ばれた橋の測量と設計に明け暮れた父は、着工とともに事務所を東京に移した。この57年~58年は誰にとっても文字通り疾風怒濤の一年であった。 続く

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