ひとりとみんな

  学校は「君たちは選ばれた特別な存在だ」と若者を扱うべきだろうか。  名門大学受験特別コースが売りのある大規模高校では、特別コースクラスには、冷房完備絨毯敷き詰めの校舎と特別待遇のベテラン教師が割り当てられた。

 それとも「彼らに与えられるものは君たちにも保証する」と言うべきなのか。後者の場合は、闘いを伴うことになる。「彼らにないものを、我々はどう考えるべきか」と問うだけでも相当に顰蹙をかう。

 不都合な現実を曖昧にしたままとぼけて、厄介事から身を隠しているのではないか。「公」教育がそれでいいのか。

 多分彼らは卒業どこかで交じり合う、違いは滲み出る。その時「奴らは特別なんだ」と、行儀よく諦めたり優越感に浸ったりする。それが世の中さと問題を先送りにする・・・それは程度の差はあるが、ユダヤ人・朝鮮中国アジア人差別に繋がっていないか。「ダーバン宣言」から日本全体が逃げている。嫌なものは見なかった知らなかったことにする歴史的習性を培っている。


  「一人はみんなのために、みんなは一人のために」は掛け声に過ぎないのか。 ラグビー精神や人間ピラミッドの理念として語られるが、その中ではチーム以外の個人が視野にありはしない。

枠外にある者を敵視さえする。「「一人はみんなのため」は「一つの目的」のため」になっている。一つの目的とは達成や勝利である。ナチスは「一つの目的」の代わりに「一人の総統」を、大日本帝国は「現人神ヒロヒト」を据えて酔い痴れた。左の画像は「みんな」の実態を捉えている。この時現人神は防空壕に身を隠していた。


 北朝鮮の憲法第63条は「朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利と義務は、『一人はみんなのために、みんなは一人のために』という集団主義の原則に基づく」と規定している。みんなとは誰なのか、一人とは誰なのかをよく示している。酔い痴れる材料としての「みんな」と「ひとり」。

 部活でも「一人はみんなのために、みんなは一人のために」はよく聞く言葉だ。その無内容さは、「北」憲法規定といい勝負である。


   前出の大規模高校の大部分は、一般コースであった。授業料は同じなのに待遇は雲泥の差、それでも生徒たちは「彼らは特別、彼らのおかげで学校全体が有名になれる」と満足していた。学校内だけを見れば、全てがwin-winの関係だと見紛う。


 「部分=ひとり」の利益を「全体=みんな」の利益に、限りなく近づけることは不可能ではない。例えばコロナワクチン製造を私企業から切り離して国際管理の下に置くことによって、最貧国でもワクチン接種が可能になる。その一歩として製薬を国営化した国も既にある。

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