「3/7」と「4/7」  

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 父が問いかけた映画は「4/7」だった。そのタイトルに父は決意を込めた。

 「あれが九州、見納めだ」には、言葉に出来ないものが隠されていた筈である。


 この1957年~58年は、文字通り疾風怒濤の一年であった。先ず母が血を吐いた。師範学校在校中、食料事情が良かろうはずはない、結核に罹患したが寮で寝るだけの「女工哀史」と同じ世界。駆け付けた祖父は「このままでは死ぬ」と判断、退学させ、負ぶって帰ったがその軽さに驚いたことを祖母に語っている。幸い半農半漁のふるさとは喰うには困らず自然治癒。それが、都会の生活で再発したのだ。

  はじめのうちは大叔母が駆け付けたが、後に家政婦を頼むようになった。こんな金がどん底生活のどこから湧いて出たのか。                              

  トメ婆さんが他界したのはこのころだと僕は考えている。根拠は後にする。


 話は少し後戻りしなければならない。

 敗戦による大変革の嵐は療養所にも吹き荒れた。民主化と特効薬だ。治療薬プロミンの劇的効果は、米国の実験で1941年には既に明らかになっていた。それが直ちに日本の患者への朗報とならなかったのは、戦争のためである。最新の情報は遮断され、療養所の医者までもが徴兵された。日本でのプロミン合成は、1946年を待たねばならない。5年の差は決定的である。その間も、子どもの患者たちは「皇国勝利」のため、空きっ腹で霜柱の上に立たされ、防空壕堀りに動員され、病状悪化と死を余儀なくされたのである。


 プロミンが使われはじめるのは敗戦後1947年から。それまでも幾多の新薬が試され、その度に酷い目にあった患者たちは、始め冷ややかであったが、見る間に症状が改善するさまに騒然となり、各地の療養所にプロミン獲得促進委員会が結成される。だが一目瞭然の効果にもかかわらず予算がとれない。 厚生省のプロミン予算要求六千万円は大蔵省に削減され僅か一千万円に。

 プロミン獲得闘争が始まったのは僕の生まれた1948年。

 患者たちはその画期的効用に掛けて結束、ハンストまでして政府に迫り、5000万円を獲得して団結の力を知った。1949年には54名だった全生園の死者が50年からは38名、26名、18名、9名と激減してゆく。同時に退所者も24年には5名だったのが 57年には35名と、驚くべき変化をもたらした。

 

 当時の子どもの患者の作文がある。「・・・松田先生は「あすからプロミンをうって下さいね」とおっしゃった。わたしはそれをきいて、うれしくってたまらなかった。早くあすが来ればいいのにね、と思いながら医局を出た。でも自分ばかりうれしくても、もれたY子ちゃんはかわいそうでたまらなかった。RちゃんやYちゃんたちが、プロミンをうってかえるのを見ると、うらやましくてならなかった。夜ねる時もプロミンを思い出してねむれなかった。 とうとうまちかねていた日になった。朝の内は少し忘れていたが、Rちゃんが「きょうからプロミンだね。」 といったのでわたしは思い出したように「あゝそうそう」といって「忘れていた」といった。朝ご飯もすぎてまちかねていた九時が来た。わたしたち五人は「一ぺんではいればいいのにね」と話しながら医局に行った。医局につくと胸がどきどきとしたりうれしかったりしてたまらなかった。こわいながら手を出して外のほうを見ていると、いつのまにか「ハイ、ヨロシ」とかんごふさんがいわれたので、わたしはほっとためいきをついた。」

 崩れていた患部がどんどん乾き、盛り上がっていた皮膚は平らになり、数時間を要した疵のガーゼ張替えも無くなる。

 生きる希望を得て、園内は一気に文化活動の高揚期を迎える。演劇、詩、文学、歌舞伎、コーラス、ダンス、野球、・・・。全生園では「青年文化クラブ」が結成され、機関紙や弁論大会、掲示板で、園や全生常会への批判を展開した。演説会、映画界、教養講座も開かれ、羽仁五郎や徳川夢声らが来園、会場は人であふれかえった。NHKも録音構成番組の取材に来るようになった。                                            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社)から引用

 トメ婆さんの症状も軽快し、退所も可能となる筈であった。

 父はこの情報をどんな思いで受け止めたのだろうか。父が故郷を出たとき、祖母に治癒の可能性はないに等しかった。      それがプロミンの出現で一変したのだ。トメ婆さん自身予想だに出来なかった。                                       

 

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