熊本と都城を肥薩線経由で結ぶ1121列車は、門司港発夜行であった。
深夜の熊本駅で父は、改札脇の事務室からホームに出た。大勢が改札を待って行列していたのに、何故一介の失業者がこんなことが可能だったのか。朝鮮総督府鉄道局引揚げ者への特権があったのか。
熊本を引揚げることになった日、父は大きく白い包みを僕に持たせた。
「こんた何な」
「骨壺じゃ、父ちゃんの良う知った人の骨が入っちょる」
「け死んみゃったとな」
「お前が抱えときゃ、こん人も嬉しかろたい。大事に抱えにゃいかんよ」
昔はチッキで手回り荷物以外は送ったから、楽ではあったが弁当を使うとき以外は膝に乗せ、歩くときは両手で抱えさせられた。しかし志布志駅からの途中、父が骨箱を抱えて一人お寺で車を降りた。
この遺骨がトメ婆さんだったのではないかと思えてならない。死んで始めて孫と対面したことになる。骨になっても患者の殆どは家族に引き取られることはなかった。たとえ引き取られても、列車の網棚に放置されるのが常だったという。この寺は祖母の菩提寺であり、住職は父の同級生でもある。
小学校三年生に進級する寸前の1957年春、慌ただしく僕らは1121列車に乗り込んだ。妹は熊本の小学校に入学手続きを終えていたから、一日も登校せずに転校することになった。急がせたのは、母の入院である。故郷の結核療養所に欠員が生じたのだ。1950年代頭初、結核は依然「死の病」と恐れられ死因の第1位であった。自宅療養中筋肉が落ちて母は歩けなくなっていたから、入院が決まって慌てて歩行練習を手伝ったのを覚えている。
この時、父は戸畑にあった若戸大橋建設準備のための事務所に単身赴任。測量や構造設計にようやく専念できるようになっていた。始め1/7がいつの間にか3/7になっていた。しかしそれは祖母が生き永らえたためであり、災難ではない。少なくとも父はそう考え続けてきた。
九州の軍都、小倉・熊本・都城を結ぶ登り1122、下り1121列車は、深夜に熊本を発着した。肥薩線と吉都線を経由して、熊本と志布志線始発の都城を結ぶには便利であったから幾度も利用した。沿線の景色は記憶に焼き付いている。
最も標高の高い大畑(おこば)では列車交換や給水のため停車は長かった。夏でも涼しく乗客も給水した。父は列車が停車しきらないうちにいち早く駆けながら飛び降りるのが得意で、冷たい水が溢れる噴水盆に一番乗りした。顔を洗い旨そうに冷水を飲むと、水筒一杯にして窓から投げ入れて呉れた。この時列車はまだ完全には停止していなかった。この技も総督府鉄道局で身に着けたに違いない。大畑から肥薩線は吉松に向かって下るのだが、ループトンネルやスイッチバックが錦江湾を背景に続く。
汽車の煤煙を浴びながら、この眺めを祖父も佐世保との往復で味わった。父とトメ婆さんも。
吉松から1121列車は吉都線で都城に向かう。
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