先駆者の孤立と苦難、団結・連帯とは何か

水浸しの作業場での洗濯も患者作業であった。死者も出た。

  野間宏は、ハンセン病療養所を日本の最も暗い闇」と呼んだ。その闇を、楽園と呼び賞賛した医者が林 文雄である。
 「療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。註 そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした・・・。
 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。・・・
 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである」 1930年 林文雄 『醫海時報』
                                             
 アンパン一つが3銭の時代である。重い炭俵を担いで氷雪に凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても疲労が限度を越えても気付くことなく労働に精を出した。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。
 それがいかに過酷な労働であったかを語る挿話がある。


 1960年、不自由舎(不自由な患者の病舎)での患者付添(不自由舎付添は、一室7人の病人を住込み一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである)が、患者労働から職員看護に切り替わる。
 だが、労働の担い手が病人から健康な職員になったにも拘わらず、あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か、この時職員は初めて知るのである。患者による患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷。ここに横たわる人間観・世界観を、吉川四郎の『牢獄か楽園か』という題名が捉えている。林は肉親に囲まれて「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えている。光田や林が、強制的に隔離して肉親から切り離された患者たちの淋しくやるせない最期を、彼らはどう考えていたのだろうか。
   患者労働を楽園のように描いた林論文は、患者の隔離に反対し「治療解放」を主張する青木大勇 長崎皮膚科病院長の論文への反論として掲載されている。論争の背景には、療養所の役割が「隔離・監禁」から「治療・研究」へ変化する国際的潮流に目を背け、絶対隔離に拘る日本癩学会の姿勢がある。

   林文雄は北大を出て、将来の教授を嘱望されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬヒューマニスト的生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。

  全患協(ハンセン病者の全国組織)が、予防法廃止と隔離政策による損失補償等を要求する運動方針を採択したのは1963年。方針に基づいて「らい予防法改正要望書」を提出、予防課長は協力を約束したが、事態は捗るどころか療養所の統合再編等の構想が出るなどまさしく逆向きであって、入所者の厚生官僚に対する不信は募るばかりであった。

  1985年全生園介護職員5名が「危険手当」(患者との接触度(感染の危険率)による職員給与の調整給  様々な困難に手当があるのは当然であって、それが虚偽の(感染の危険率)に基づいていることが差別であり不当なのである)への異議を申し立て、法務局に手当額を供託している。24%もの特権的手当を不当として、職員の側から予防法に問題提起した英断の歴史的意義は大きい。だが支援も広がらず5人は退職に追い込まれたと聞く。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の提起はこれを受けてのことであったのか、先覚者の孤立・苦難である。

   僕は、高校生がこういう人々を尊敬する社会を作りたいと考えてを授業を組み立てていた。「地の塩」に気づくのは難しいとつくづく思う。

 隔離政策に決定的突破口が開かれるのは、それから10年後の1994年。らい予防法廃止の意向を元医務局長が公表、「大谷見解」と呼ばれる。入所者の処遇を維持・継続しながら、予防法は全面廃止し関係機関の反省を求めるという至極常識的なものである。しかしこれを画期的と言わざるを得ない歴史的無念がある。
 大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。  しかし、表裏一体論は、官庁内交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先させて恥じない風潮は官庁街を闊歩して止むことを知らない。「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後の私的見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   翌1996年、国会は予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定からは89年もの歳月を浪費したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの恩恵は死守した。
                                                   
 あろうことか、自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞した。この時、彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 1941年洗濯場事件。穴の開いた長靴で作業していた相撲取りのような青年が、敗血症で死んだ。主任の山井道太は、穴の開いていない長靴を要求したが、全生園当局は拒否。洗濯場は、抗議のサボタージュに入る。園当局は山井と妻を草津の「重檻房」に送り、殺してしまった。全国の反抗的患者を懲らしめるために、光田健輔が作らせたのが「重檻房」である。冬は零下20度にもなる過酷な環境と劣悪な待遇のため、収監された93名中22名が死亡した。

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